『風土記』に具体的な記述がないため、江戸時代以前の産業ははっきりしない。しかし、明治に入るとその姿の一端を垣間見られるようになる。一八七三(明治六)年に編さんされた『東京府志料』には次のような記録がある。
戸数 三七戸 内僧侶一戸平民三六戸
人口 二六〇人 内男一二〇人女一四〇人
田野 田 一七町四反四畝八歩
畑 一四町五畝二二歩
物産 米 一八九石 七九二円
麦 六〇石 七五円
大豆 八石五斗 二九円七五銭
小豆 一石五斗 五円六二銭五厘
小麦 五石 一二円五〇銭
秋菜 一二〇〇荷 二四〇円
冬菜 二〇荷 五円
細根莱菔(ほそねらいふく) 二〇〇荷 五〇円
茄子 七〇荷 一四円
胡瓜 七〇 一七円五〇銭
番南瓜(とうなす) 二〇荷 二円四〇銭
戸数は『風土記』が編さんされた時代よりおよそ五〇年経過しているにもかかわらず、五戸の増加にとどまっている。耕地の反別をみると、畑よりも田の反別の方が若干多い。柳原村では米のほか、麦や豆類、野菜が栽培されており、純農村であったことがうかがえる。生産額でみると、米が七九二円と突出しているが、そのほかの産物の生産額を合計すると四五一円余となり決して少ない数字とは言えず、特に秋菜が二四〇円で五割以上を占めている。農業の村を支える用水は、「綾瀬川ヨリ潮水ヲ引キ用フ」と記されているように、潮水と知りながらそれを用いざるを得なかった。周囲を古隅田川・古綾瀬川に囲まれた輪中の地形ゆえの苦労が忍ばれる。
『東京府志料』には農産物以外の産物は記録されていないが、一八七五(明治八)年に編さんされた『東京府村誌』には産物として鉄鋲一〇八万本という記述が現れる。民業として「農ヲ業トスル者三十六戸工ヲ業トスル者三戸」とある。農業を基本としながらも他の産業が芽生えつつあったようである。