荒川放水路開削と柳原

293 ~ 294

 大正期の柳原について、冨澤孝之氏は次のように記している。

 大正の頃の柳原といえば山紫水明とまではいかなくても、小川にきれいな水が流れ、用水堀には沢山の柳の木が影を落し、水温む頃ともなれば吾妻橋から出るポンポン蒸気船に乗り鐘ヶ渕の船着場で降りた東京の人(私達は町の人をそう呼んでいた)が三々五々連れ立って一日の行楽をたのしみ(郊外のハイキングコースであったと思われる)、そして帰りには堀切の菖蒲園で買った菖蒲の束を手にして帰って行く姿の見られると言うような静かでのどかな農村でした。


1919(大正8)年

このような風景に変化をもたらしたのが、荒川放水路の建設工事である。柳原は村の半分が放水路用地となった。用地内にあった家屋はそのほとんどが残った西側半分に移ったようである。理性院の境内も用地となり、移転を余儀なくされている。放水路によって南綾瀬村から切り離されたため、様々な困難があったが、中でも工事中の放水路、綾瀬川の中之橋を渡ることになった南綾瀬尋常小学校への通学は大変で、千住の小学校に転校する児童もあったようである。放水路の通水・完成に先立つ一九二〇(大正九)年には南葛飾郡立南綾瀬尋常小学校柳原分校が開設され、通学問題への対応がなされた。開設当初は低学年児童が、二四(大正一三)年には校舎増設の上、三・四年生も分校に通学するようになった。その後、二九(昭和四)年に南綾瀬第二尋常小学校として独立、同年九月に柳原尋常小学校と校名を変更した。