千住関屋の里

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 一九四二(昭和一七)年二月一一日に建てられた区画整理碑に「昔この地は芦荻叢生し鯉魚の浮遊に委せられた。また関屋天満宮鎮座の地として、水陸の風光を兼ね豊沃な農産地であった」と刻まれている。このように、隅田川(当時荒川)沿岸は関屋の里とよばれ、江戸近郊の名所として知られ、江戸の文人墨客が足を運んだ。その由来として『旧考録』には、

 建久年中鎌倉(けんきうねんぢうかまくら)之治世(じせ)に武将頼朝公奥州街道(ぶしやうよりともこうおふしゅうかいどう)の守護(しゅご)として関(せき)を立(たて)たまふ、其名残(そのなこり)て今(いま)に関屋の里(せきやのさと)といふ

と記されている。建久年間(一一九〇~九九年)に鎌倉幕府を開いた源頼朝が、奥州街道の守りを固めるために関所を設け、その名残で関屋の里とよんでいるとある。

 関屋の地が『旧考録』が伝える戦への備えから、行楽地へと変化する過程で、その範囲も変化している。中世の関屋の里は、隅田川の渡に位置していた隅田宿(現墨田区墨田)の異称であった。しかし、その宿機能の終焉と共に実態が不分明となり、江戸時代にはその範囲も曖昧なものとなった。「江戸名勝誌」(一七四六<延享三>年刊)では「関屋(せきや)の里 木母寺の後牛田と云所なり」、「葛西誌」(一八二一<文政四>年)では、「庵崎 関屋里 庵崎は、中古より、この所にもその名ありと見ゆれど、旧跡を詳にせず、或云、今足立郡千住三町目に属する関屋天神の立る地なりと」、さらに「墨水遊覧誌」(一八二八<文政一一>年)では、「関屋の里 一説にせきやの里は足立郡の内ともいふ。名寄に下総。松葉集に下総或は武蔵と注す。」とある。これらの文献から、関屋の里が、綾瀬川を挟んだ、足立区千住関屋町付近から墨田区堤通二丁目にかけての地域を漠然と指すようになっていったことがわかる(加増啓二「【ノート】奥州街道隅田宿から日光道中千住宿へ」)。

 江戸の行楽地であった関屋の里は、地誌類に取り上げられるだけではなく、浮世絵の題材としても数多く取り上げられ、当時の様子が伝えられている。