関屋の里は旧綾瀬川の両岸に広がり、江戸時代には綾瀬川と荒川が合流する地点であった。また浮世絵や写真などの題材として多く取り上げられ、風光明媚な土地として知られた。
幕末維新期になると、官軍によって交通取締のための関所が設置された。一八六八(明治元)年閏四月三日に、草加宿(現埼玉県草加市)、内匠新田(現足立区内匠橋付近)、綾瀬川河口に位置した隅田村(現墨田区墨田)の名主と年寄が、綾瀬川周辺三四か村の代表として、代官佐々井半十郎の役所に次のような願書を提出している。
乍恐以書付奉願上候
武州綾瀬川附、草加宿外三十三ヶ村役人惣代同宿年寄弥三郎、内匠新田名主弥八、隅田村名主坂田三七郎申上奉り候、今般官軍方向村地内綾瀬川口え御固メ相附、同川通船之内武器并米穀積船出入共昨二日より皆止ニ相成、然処私共村々之儀は御固御場所下手ニもこれあり、米穀積通船残らざるニては継廻等相成兼難渋至極仕侯、依ては御固御場所え村々役人共印鑑差上置通船之節俵数等認入、手形御引合相違これなく候ハゝ御通相成候様其筋へ仰立られ、急速右場所え御沙汰相成侯様願上奉り候以上
(越谷市教委所蔵「西方村触書留」、『越谷市史続史料編(第三集)』所収)
この史料によると、官軍によって、綾瀬川河口(現在の旧綾瀬川と隅田川の合流点)の警備が固められ、閏四月二日から、綾瀬川における武器と米穀の輸送がすべて禁止された。三四か村の村々は、「御固御場所」よりも上流に位置しているため、米穀輸送ができず困っているので、村役人の印鑑を「御固御場所」に届け、米穀を輸送する際には俵数などを記入した手形(証文)と相違なければ通行させてくれるようにしてほしいと願い出ている。この時に提出された願書は聞き届けられ、閏四月一四日、隅田村名主から内匠新田・草加宿の村役人中に触が出された。それによると、閏四月一三日夜には北陸道総督から「綾瀬川御番所」(=「御固御場所」)へ村役人の印鑑が届けられたので、各村の役人から「綾瀬川御番所」役人宛の証文を提出して綾瀬川を通行するようになった。証文には米穀の荷主、船の数と船主、売渡先の米屋の名前などが明記された。
この時期、江戸市中では彰義隊士が警備を続けたり、脱走兵が出入りしているという、上野戦争前の不穏な社会情勢にあり、千住宿にも関所が設けられている(八四頁参照)。こうした中、商取引としての米穀輸送が認められていることから、綾瀬川番所の設置目的は、兵器と兵糧の輸送取締であったことがわかる。なお、番所の位置は史料中に「綾瀬川口」とある。引き潮を利用して川を下り、潮の加減を見ながら棹で隅田川に出たという聞き取り調査の結果(『八潮市史』民俗編、八潮市役所、一九八五年)や、隅田村名主が惣代になっていること、「向村地内」という文言を考えると、現在の足立区千住曙町と墨田区墨田五丁目の境界を流れる旧綾瀬川付近が、綾瀬川舟運の取締りにもっとも適した場所であったと思われる。