足立区内では市街地化の進展に対応して、各地で区画整理組合が設立され、事業が進められた。その第一号が千住関屋町の区画整理である。
千住関屋町は、掃部堤(現墨堤通り)と隅田川に挟まれた地域で、水田が開かれていた。しかし、明治時代にはいると隅田川沿岸は地盤沈下を起こしはじめ、関東大震災以後は葦の生い茂る荒地となってしまった。一九二五(大正一四)年一月震災復興計画策定にあたり、関屋は工業地域に指定された。当時は陸上輸送が未発達で原材料や工場製品の輸送は舟運にたよっていたため、東京湾沿岸や河川沿岸がすべて工場地帯となった。
関屋で区画整理事業が計画された背景には、三二(昭和七)年の市郡併合の頃に地理的位置と水上・陸上の交通至便であることから絶好の工場地と認識されていたこと、足立区が増設小学校の敷地を決定するに及んで宅地としての利用増進を図る好機とも捉えられたこと(「千住関屋町土地区画整理記念碑」)があった。三五(昭和一〇)年一〇月、地権者三二名が組合員となり、内務省・東京府に千住関屋町土地区画整理組合の設立を申請し、翌三六(昭和一一)年三月認可された。組合長には千住仲町の旧家鈴木又右衛門氏(九代目)が就任した。区画整理の施行範囲は、東西が常磐線~千寿第八小学校正門前の通りまで、南北が掃部堤から隅田川北岸までであった。
区画整理の設計は東京市の技官が担当し、同年四月五日には市街地造成の起工式が行われた。工事は、まず鉄筋コンクリートで護岸を築造し、その中の低湿地を隅田川沿いから浚渫(しゅんせつ)した砂土で約二mの高さまで埋め立てて、住宅地と街路と公園・小学校用地を造成した。三七(昭和一二)年五月、現千寿第八小学校北側に隣接して、関屋公園が開園した。ついで三八(昭和一三)年には千寿第八小学校が開校した。四一(昭和一六)年三月二四日に工事が完了し、七月四日には換地処分も東京府に認可されて所期の目的を果たした。翌四二(昭和一七)年九月には区画整理記念碑の除幕式にあわせて竣工祝賀会も検討されたが、『土地区画整理記念誌』によると、時あたかも第二次世界大戦に突入した時期で、時節柄派手な祝賀会は自粛したとある。五一(昭和二六)年一〇月にいたり、戦前から事業を施行していた千住関屋町土地区画整理組合は解散した。
関屋公園には当時の記念碑が建てられている。これによると区画整理地四一、三〇三坪、足掛け七年の歳月、三四万一一七〇円を費やしたと記録されている。公園は、八〇(昭和五五)年に千寿第八小学校の拡張で隅田川縁に移転し、さらに新たな開発のために再度移転した。これに伴って記念碑も移設されている。