一八八〇(明治一三)年測図の地図を見ると家屋は西光院周辺に集中している。ここは掃部堤の内側(堤内)で、堤外には一面田が広がっていた。一九〇二(明治三五)年になると、現在の足立第二中学校の場所に東京織物株式会社が設立された。
一九一一(明治四四)年、内務省は千住三丁目牛田耕地(現千住曙町墨堤通り付近)に荒川改修事務所を設置、事業対象地の土地の収用が開始された。一九(大正八)年に、千住町地図が作製された時には、織物会社・鉄工所・銑鉄会社の場所が示されているいずれも掃部堤の内側、千住三丁目牛田耕地にあった。荒川堤(掃部堤)の南側には、常磐線の東側に鉄工所の記載がみられるだけである。
隅田川沿岸に工場が進出するのは昭和に入ってからである。一九三四(昭和九)年一一月に東京製鉄株式会社千住工場(千住関屋町一九番地)、同年一二月には吾嬬製鋼所千住工場(千住曙町四二番地)、三七(昭和一二)年には東鋼業株式会社(千住曙町四一番地)が相次いで設立された。旧綾瀬川沿いには、三九(昭和一四)年に前田鉄工所ができた。五三(昭和二八)年になると日新工業の東京工場分工場が建設された。こうして千住曙町から千住関屋町にかけての隅田川沿岸には大工場地帯が出現した。
一方、土地区画整理が行われた地域は、工場地区・住居地区に区分された。この地域には倉庫が多く建てられた。隅田川沿岸に位置していること、東武鉄道の引き込み線があること、墨堤通りがあることなどから陸上輸送・水上輸送共に便利であったことがその背景にあるといえる。
一九七〇年代後半になると、工場や倉庫の移転・廃業の動きが始まる。その跡地には高層住宅が建設されている。
このような町の変化を反映して、前にも図示したように、隅田川沿岸地区の人口変遷・世帯数変遷が共に増加傾向を示している。
また、一九六〇年代に隅田川沿岸には防潮堤が建設されたが、高層住宅の建設に伴って水辺に面したテラスも設置された。現在、千住曙町と荒川区南千住を結ぶ新たな橋が架橋されつつあり、この地域は、変化が続いている。
次頁に一八八〇(明治一三)年、一九三七(昭和一二)年、一九六九年(昭和四四)年の地図を並べてみた。これを見ると、隅田川沿岸の変遷が如実に現れている。