解剖人墓

307 ~ 308

本寺の名を知らしめたのが、槍掛けの松であるが今はない。それにもまして貴重なモニュメントが墓地入り口付近に残されている。小さな「解剖人墓」がそれである。一七六九(明和六)年、杉田玄白・前野良沢らによって『解体新書』が著された。小塚原刑場を舞台にしての、日本医学の黎明である。これを受け、さらに実践化した貴重な証しが、清亮寺の解剖人墓である。

 凝灰岩の高さ六五cmほどの小さな柱状で、極めて風化が進んでいる。そこで、旧墓石の前に新たな碑が建立され、旧墓石の文字も合わせて記録されている。

 明治初年 日本医学のあけぼのの時代 明治三年八月 当山で解剖が行われました 仏をふわけさせる者など だれもいない頃でした 被解剖者はすべて死罪人でした 執刀は 福井順道が一人大久保適斉が九人 亜米利加人ヤンハンが一人いずれも日本医学のパイオニアたちでした それら死罪人の霊をとむらうべく 墓を明治五年二月に建てましたが 破損してきましたので ここに新しく石碑を建立しました

  昭和四十二年六月 当山二十七世 日香

 さらに被解剖人一一名の戒名・執刀日・俗名・年齢などが刻まれている。

 勇節釼忠信士明治三年八月九日没金蔵二十八歳

顕刃信士明治三年十月二十三日没憲隆二十七歳

皆刃信士明治三年十一月十二日没清兵衛三十一歳

受刃信士 同         豊吉 三十歳

顴刃信士明治四年三月十九日没 文治三十四歳

冷刃信士明治四年五月     治良吉三十六歳

椋刃信士明治四年五月     七五良五十四歳

散刃信士明治四年六月十七日没 粂七 三十歳

得刃信士明治四年八月十七日没 久蔵五十二歳

治刃信士明治四年(一〇月一〇日)靏吉二十七歳

救刃信士明治四年(一一月八日)加吉(二十七)

※括弧内は故瀧善成氏が一八七〇(明治三)年と一八七一(明治四)年の回向帳(回向院蔵)から調査したものである。この時に判明したこととして、文次の項に「小菅県斬首 当時無しく死骸清亮寺へ送ル」や「処刑 梟首二 斬首一 斬罪八」「一一人中八人が無宿者で、顕は坊主」などが紹介されている。


清亮寺開基墓

 明治維新とはいっても、すべてが江戸時代の名残につつまれていたであろう時期、千住のはずれ、弥五郎新田村において解剖が行われていたということを記した貴重な証人である。明治の外科医学がここから始まったともいえそうな事柄であり、罪人とはいえ、その体を文明の進歩に提供された被処刑人の名前身元までが記録されていることも貴重である。

 一九八二(昭和五七)年歴史資料として区登録文化財となったが、医学史上でも貴重な資料といえよう。福井順庵・大久保適斉・アメリカ人ハンセンという医学者についての追究も必要であろう。


解剖人墓 1965(昭和40)年に再建された墓


解剖人墓(本体)