西光院(千住曙町二七-一)

309 ~ 311

 千葉山薬師寺西光院は、真言宗の寺院である。もとは本木村の吉祥院の末寺であったとも伝えられている。この地は古くは牛田村・牛田耕地ともよばれ、千住三丁目に含まれていた。一八一四(文化一一)年に刊行された『遊歴雑記』には、

   二十三牛田村千葉山西光院(ウシダムラチバサンサイクワウイン)

 一、武州足立郡牛田村千葉山西光院(ブシウアダチゴヲリウシダムラチバサンサイクワウイン)密宗ハ、綾瀬橋(アヤセバシ)の西(ニシ)二町(テウ)にして堤(ツツミ)を北(キタ)へ下(ヲ)りて一町(イツテウ)にあり、本堂(ホンドウ)ハ東向(ひがしむき)に建(タテ)て境内(ケウナイ)に大木(タイボク)の松(マツ)のとし古(フリ)し様(サマ)、小地(セウチ)ながら古跡(コセキ)と見ゆ、実(ゲニ)や本堂(ホンダウ)に安置(アンチ)する薬師如来(ヤクシニヨライ)ハ御長一尺六寸(ミタケイツシヤクロクスン)、千葉家代々(チバケダイダイ)の守本尊(マモリホンゾン)にて、頼朝公御在世(ヨリトモカウゴザイセ)より起立(キリウ)の寺(テラ)とぞ、故(ユエ)に千葉山(チバサン)と称(セウ)すとなん、是(コレ)より西の方堤通(ニシノカタツツミドヲ)り千住掃部宿土物店(センヂユカモンジユクツチモノダナ)へ十二町(ジユウニテウ)、又東南の方綾瀬(マタトウナンノカタアヤセ)をわたり南堤通(ミナミツツミドヲリ)、墨田村木母寺(スダムラモクボジ)へ十三町(ジウサンテウ)ありとぞ、此双方(コノサウホウ)の堤(ツツミ)の眺望風色(テウボウフウシヨク)いはん方(カタ)なく、就中遥(ナカンヅクハルカ)に南面(ナンメン)すれバ綾瀬川(アヤセガワ)の溶(ウネリ)て、右(ミギ)に関屋の里(セキヤノサト)を見(ミ)わたす勝景天然(セウケイテンネン)にして更(サラ)に論(ロン)なし、兼(カネ)て一煎(イツセン)し楽(タノ)しまばやと、携(タヅサ)えし組昆爐取出(クミコンロトリイダ)し土手(ドテ)の芝原(シバハラ)にすへ、綾瀬橋(アヤセバシ)の中央(チウヲウ)より土瓶(ドビン)の手(テ)に苧縄結付(ヲナワユイツ)て長流(テウリウ)を汲収(クミトリ)、一煎(イツセン)しこゝろみるに、水茶(スイチヤ)の風味(フウミ)ハかハらねど一昨年(イツサクネン)の春爰(ハルココ)に逍遊(セウユウ)せし折柄(オリカラ)とハ異(イ)にして、日向(ヒナタ)ハ秋暑(シウシヨ)にあつく、木蔭(コカゲ)は虵蝦蟆(ヘビガマ)の恐(ヲソ)れあり、殊(コト)に草深(クサフカ)く生(ヲ)ひ人影稀(ジンエイマレ)に煎茶振舞(センチヤフルマウ)ばやと往来(ワウライ)を待(マテ)ど、駄賃馬(ダチンムマ)と重荷(ヲモニ)に急(イソ)ぐ人足(ニンソク)のミ、本意(ホンイ)なけれバ頓(ヤガ)て茶具(チヤグ)ども取仕舞(トリシマイ)ぬ、爰(ココ)に煎茶(センチヤ)して眺望(テウバウ)するハ、季春(キシユン)の頃(コロ)を最上(サイゼウ)とすべし、雅人(ガジン)の愛(アイ)すべき土地(トチ)にこそ、

と記されている。天然の勝景と称賛し、春こそは雅人の愛する土地であると述べている。この景色のなかに、西光院は東向きの堂があったという。現在は南向きとなり、旧掃部堤の通りからゆるい坂を下りると本堂の正面に出る。

 山門を入ると正面に見えるのが、本堂に掲げられた額「千葉山」である。これは千住一丁目慈眼寺の先代住職の揮毫になるもの。彫刻は、かつて墨田川沿岸にあった造船所で働く人が希望して彫った作品と伝えられている。


西光院山門と本堂

 一三〇七(徳治二)年、領主千葉常胤の後裔による草創と伝えられている。開山は覚音。鎌倉時代も末期にあたる時期であるが、それを示す資料は現在のところ見当たらない。本寺であった本木の吉祥院が一二八八(正応元)年創建と伝えられ、同年の板碑も発見されている。今、西光院周辺にこうした中世の名残を見出せるものはない。

 千葉常胤の守護仏と伝える薬師如来(弘法大師の作とも伝えられている)を安置していることから、古くから「牛田薬師」とよばれてきた。また千住といっても葛飾郡柳原村にも挟まれていたり、墨田区との境にも近く、「下総国牛田薬師」と刻んだ石柱も残されている。

 古い記録類は空襲で全て焼けてしまい、残されていない。本堂に祀られている仏像などは、防空壕に避難して今日に伝えられている。たびたびの空襲で避難を繰り返し、傷んだというが、常胤の守護仏という薬師像は今も本堂に祀られている。

 山門を入ると右手に、盥漱石(かんそうせき)が置かれている。そこには、三猿が浮き彫りされていて珍しい形の庚申塔になっている。猿の下に施主の名前が刻まれているがはっきりとは読めない。右側に「西光院宥尊 石鉢一ケ 奉庚待供養 造立者也 敬白」。左側には「天和三年(一六八三年) 癸庚九月 吉祥日」とある。

 一六四六(正保三)年の庚申塔は板碑型で、

 正保三年丙戌爰結集等毎年六度之待庚

種子 三密六大□□證輪円具足法界有情之覚躰也申祈現後二世悉地成就所 敬白

とある。一六四七(正保四)年の庚申塔は青面金剛の浮き彫りで

 為庚申供養二世安楽之造立也

種子 青面金剛像  邪鬼

延宝弐甲寅年霜月十有五日

と刻まれている。金剛の両足の左右に童子像が並び、下部には鶏と猿が彫られている。童子があるのもめずらしいが、四本の手(四臂(ぴ))を持つ青面金剛は区内唯一のものである(一般的には六臂が多い)。

 ほかに、一八一一(文化八)年の庚申塔は、角柱で「庚申青面金剛」と刻まれ、台石に三猿を彫りこんである。これは本堂西の墓地にある。山門内左手には檀家総代で徳行者だった豊住徳太郎碑がある。

 興味深いのは、山門近くに残された小さな石柱で道標と思われるものがある。「下総国牛田村薬師尊前」とあり、この地が柳原村や綾瀬川・隅田川にはさまれた場所であったことの名残のように思われる。


西光院 手水鉢の庚申、下部に奉納者名がある

 西光院は、荒川・綾瀬川近辺の荒綾八十八ヵ所霊場巡りの八二番であり、一九二六(大正一五)年の案内道標も残されている。


西光院の石造物の一つ「牛田薬師」の案内表に「下総国牛田村薬師尊前」とある