古い記録は戦災などで失われてしまったが、墓地に残る「石出常軒法名日念碑」は、江戸時代の極めて特徴的な出来事を記録し、歴史資料として区登録文化財(一九八二<昭和五七>年)となっている。この碑は吉深の息子の師深によって一六九一(元禄四)年三月に建てられ、吉深の出自や事績などが記されている。この「日念碑」はすでに風化が進み、もはや全く読めない状態になっている。幸いなことに『風土記』にその主要な部分が記録されている。
石出帯刀吉深は、一六一五(元和元)年三河に生まれ、石出家の養子となった。幕府の役人として、江戸町奉行の配下で小伝馬町の牢屋奉行を務めている。一六五七(明暦三)年、振袖火事とよばれた大火の際に百二、三〇人いた囚人を一時放免し、焼死を免れさせた。この臨機の処置は将軍からも称賛されたという。これは後に通例となって、何回かの切り放しが行われることとなった。
吉深は、延宝年間(一六七三~八一)に牛田村に隠棲し、常軒と号して「源氏物語」の注解書「窺原抄」七〇巻を著した。また、自分の屋敷地に一宇をもうけ「西光院」と名付けたという。一六八九(元禄二)年三月二日没し、享年七五歳。浅草の善慶寺(台東区元浅草四丁目)に葬られた。焼け残った過去帳の二日の頁には、
元禄二己巳三月
正定院殿了修日念
石出勘助父
と記載されている。
善慶寺は、一六一三(慶長一八)年石出氏が開基した寺で、もとは神田方面にあったと伝えられている。また、細川氏の祈願所でもあったという。さらに、この過去帳には次のような記載もある。
元浅草善慶寺近くの工事で「石出家」と読める墨書のお棺の蓋が出土した
なお、善慶寺の墓地は、梅田の善立寺の墓域内に移され、万霊塔に石出家分も祀られている。この万霊塔には、「善慶寺開基檀那 石出家代々之精霊塔」という文字が刻まれており、墨書のあった蓋もこの万霊塔に埋納されている。
(石出帯刀吉深(常軒)の詳細な事績については「文化財調査報告書No.15」を参照)。