武家は国元と江戸の参勤交代で利用する主要道として利用した。一七〇三(元禄一六)年に結城藩(茨城県結城市)の家老水野長福が藩主の供として国元に下向したときの「結城使行」(結城市所蔵文書)には梅田付近を通行した記事があり沿道の記事を次のように記している。
…略…左の畠の中成松林の中に氷川大明神ますといふ梅田村あり。
鴬の在所は爰か むめた村
左に松林あり。佐竹氏の御別業也とぞ。嶋根村、ろくがぢ(ママ)、竹のつかを過て…略…
文中には畑や松林が描写されているほか秋田の大名・佐竹氏の「御別業」(抱屋敷)についても触れている(「梅田」の章参照)。
本地区は千住の宿場を出て農村地帯に出る戸端口に位置しており、旅が始まったことを実感する場所であったらしく農村風景を描写した紀行文も多い。
次ぎに紹介するのは、寛政改革の主導者として知られる奥州白河藩主・松平定信の紀行文「霞の友」の一文は、一七七六(安永五)年四月、千住で一泊してからの記述であり、旅立ちにともなう風景描写が印象深い(吉田勇「松平定信と足立」、『足立史談』第一八五号 別掲)。
榛の並木が伸び、麦が広がる中に菜の花が咲いている風景が描写されているとともに、蛙の声に耳を傾けていたり、田んぼに降り立った鷺を都鳥かと考えてみたりしているが、旅立ちで心細くなっていると述べている。そうした心境になぞらえ梅田あたりを「ひとさみしき処」と表現し、梅田という地名の割には花のおもかげもないと情景を述べている。