…道のほとりに、はんの木といへる木の、いく千もととなく、ひだり右におひさかりいたり。―略―向うのかたは、みなむぎの青くしげりたるに、菜の花うちはへみゆるもおかし。また田のうちに蛙のいくらとなく、諸声になくも、ややちかき春のわかれをしたひてなくらし。我はまた、遙かなる旅路におもむく事なれば、わきて別れを惜しむ蛙の声も、耳にとまりて「狐客最先聞」ともひふべけん。かの千住のほとりまでは、旅ともなく、まいて、うさもつらさもしらず、こよなう故郷こひしくもおもほえずありしが、道のかくへだたりぬれば、しきりに思ひしたはれて、雪の面影とのみ見し田の面の鷺も、若しや都鳥にやありや、なしやの言いてせましと思はゆるぞ、猶心ぼそき。因、此辺の道は、ひとさみしき処のよしいふ。梅田の里といへど、花のおもかげもなく、竹の塚の里を過ぐれど、ただすぐなる道にして、させるおかしき所もみえ侍らず。…
吉田勇「松平定信と足立」(『足立史談』第一八五号より)