志太義広の乱

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佐竹氏討伐により、関東は頼朝の勢力圏となったが、信太荘に独自の勢力を展開していた義広は、やがて頼朝と対立を深めていった。一一八三(寿永二)年二月二〇日、義広は頼朝に反して、数万の軍勢を率いて、常陸国から鎌倉を目指した(『吾妻鏡』では一一八一年としている)。多くの御家人が、平家の反撃に備えて、鎌倉を離れて駿河国に赴いている隙をついての挙兵だった。常陸国から、まず提携者である下野国の小山朝政のもとに進んだ義広であったが、二三日、頼朝に内通していた朝政にあざむかれ、野木宮(栃木県野木町)で大敗した。


野木宮合戦周辺図(『新編埼玉県史』通史編より転載)

 敗走した義広は、信濃国の木曽義仲を頼ったが、このことが頼朝と義仲の関係を不穏にさせたといわれている。義仲は北陸を中心に勢力を増し入京を果たしたが、義経軍らの追討をうけ、翌一一八四(寿永三)年正月、宇治川の戦いで敗北した。義広は落ちのび、伊勢国で再挙兵したが五月に斬首された。また、後に義経とともに頼朝に反抗して伊賀国で討たれたとも伝えられている。

 『風土記』の記述は、一六九三(元禄六)年二月に明王院住職快尊が著した縁起書と、一六九五(元禄八)年九月に、義広の二四世の後裔梅田六郎右衛門が作った、開基義広・中興開基久義の位牌の裏に記した事績がもとになっているものであろう。