【資料1】吾妻鏡(新訂増補国史大系『吾妻鏡』第二)

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○(建久四年六月)五日庚子。(曽我十郎)祐成等狼藉(ろうぜき)の事、聞き及ぶに随(したが)い諸人馳参の間、諸国物忩(ぶっそう)。八田右衛門尉知家と多気太郎義幹は、常陸国の大名なり。強(し)いて宿意(しゅくい)を挿(はさ)まずと雖(いえど)も、国中に於いて相互に聊(いささか)か権勢を争うものなり。しかして知家この事に依(よ)り、参上を欲するの時、内々に奸謀(かんぼう)の所存有り。疋(匹)夫の如き男を義幹の許(もと)に遣わす。八田右衛門尉軍士を相催し、義幹を討たんと欲するの由(よし)これを構えしむ。仍(よ)って義幹防戦用意を構え、一族等を招聚(集)し、多気山城に楯籠(たてこ)もる。これに依り国中騒動す。其(その)後、知家又雑色(ぞうしき)男を遣わし、義幹に告送して云う。富士野の御旅館に於いて、狼藉の由有り、風聞の間、只今(ただいま)参ずるところなり。同道すべきは。義幹答えて云う。所存有りて参ぜずと云々(うんぬん)。この使いに就(つ)き、義幹いよいよ以て防禦(御)支度を廻すと云々。

○十二日丁未。八田右衛門尉知家、義幹野心有るの由を訴え申す。(源頼朝)聞こし召しこれを驚く。義幹を召し遣わし畢(おわんぬ)。

○廿二(二十二)日丁巳。多気義幹召しに応じ参上の間、善信(三善康信)・(藤原)俊兼等奉行となす。知家召し決められ、知家訴え申して云う。去月祐成狼藉の事、今月四日承けに随い参上を欲するに及ぶの間、義幹誘引すと雖も、義幹一族郎従等を集め、多気山城に楯籠もり、反逆を企てると云々。義幹其趣を陳謝し明らかならず。但し城郭を構え軍士を聚(あつ)める事は、承伏遁(のが)れるところ無し。仍って常陸国筑波郡南郡北郡等領所を収公(しゅうこう)せらる。其身は岡辺権守泰綱に召し預けらると云々。所領等は則ち今日馬場小次郎資幹に賜うと云々。因幡前司(いなばぜんじ)(大江)広元これを奉行す。

○(建久五年十一月)十九日丙午。多気義幹歎状(たんじょう)を捧ぐ。人讒(ざん)に依り所領収公せらるる事。狩野介(宗茂)これを執申す。

知家と義幹は常陸国の大勢力で、かねてから対立していた。六月五日、知家は使いを義幹の元に送り、自分が軍士を集め義幹を討とうとしていると噂を流した。義幹が警戒して多気山城に立て籠もったところに、知家は頼朝警護のための富士野までの同行を申し出た。当然、義幹は申し出を拒否し、さらに防御を固めた。一二日、知家は、義幹に野心ありと頼朝に伝え、二二日に鎌倉に召された義幹であったが、答弁虚しく所領を没収されてしまった。

 この事件の後、小栗重成や下妻広幹といった同族が、同じ年に失脚または誅伐された。一連の事件の背後には、知家の奸計があったのであろう。なお、翌一九九四(建久五)年一一月一九日、義幹は歎状を捧げて、知家の讒言(ざんげん)を再度訴えたが、取り沙汰されなかったようである。いずれにしても、この結果、知家の常陸国における覇権が確立した。「建久四年の常陸政変」である。