梅島地区と落武者伝承

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 以上見たように、梅島地区の起源は、一つには志太義広と梅田明王院、もう一つは多気義幹およびその家臣と島根・梅田の二つの伝承がある。二つの伝承の共通点として、源平争乱期の逸話であること、常陸国に関わる武将であること、後に討伐を受けたこと、などが挙げられるであろう。なぜ、彼らが梅田・島根の歴史に由緒付られたのであろうか。

 区内には、源義家・義光にまつわる伝承は、伊興・六月・花畑などに残っているが、同じ源氏である志太義広に関するものは梅田にしか見られない。また、志太義広にしても多気義幹にしても、敗者に由緒付けていることは、区内では珍しい例である。

 足立と常陸のつながりを考えると、現在の荒川区・台東区付近に古来、常陸・下総方面と鎌倉を結ぶ道が通っていたと推測されている。これはいわゆる鎌倉街道(下道(しもつみち))で、鎌倉御家人たちが「いざ鎌倉」などで馳せ参じるために鎌倉まで往来した場所である。伝説を形成する歴史的環境が十分整っていたといえよう。多気義幹にゆかりのある三ノ輪・小塚原は、まさに中世の交通要衝に接する地であった。また、江戸時代には、千住宿から下妻道や水戸街道(水戸佐倉往還)が分岐し、常陸・下総方面への交通起点なっていた。常陸武将の伝承は、中世以来の交通面のつながりがその背景にあるのではないだろうか。

 なお、参考までに挙げておくと、江戸時代に梅田に抱屋敷を持ち、花畑の大鷲神社を修築したことなどで、足立に縁が深い秋田藩主佐竹氏は、新羅三郎義光を祖とする常陸の佐竹氏の後裔である。

 これらの伝承成立の背景には、まだ課題を多く残しているが、梅島地区の歴史は、常陸国の落武者伝承から始まったことが、おぼろげながら見えてくる。(主要参考文献 『新編埼玉県史』通史編2、『茨城県史』中世編)