【資料3】梵網戒本疏日珠鈔 巻第三十裏文書(熊谷直之氏所蔵文書、『新編埼玉県史』資料編5)

28 ~ 29

 弘安八年十一月十七日於鎌倉合戦人々自害

 前陸奥守入道(安達泰盛)   秋田城介(安達宗景)

       - 略 -

 足立大(太)郎左衛門尉(直元)  - 略 -

これは、一二八五(弘安八)年に起こった霜月騒動(頭注)での自害者を記したものである。約五〇名の自害者の書き上げの中に、足立直元の名も見える。この後、足立氏嫡流に関する資料は見られなくなるため、この事件に連座して衰退してしまい、領地も没収され、北条得宗家(頭注)の手に渡ってしまったと考えられる。

 鎌倉幕府とともに北条氏が滅びると、その跡地は足利尊氏によって引き継がれ、したがって足立郡は尊氏の領地となった(「足利尊氏・同直義所領目録」比志島文書、『新編埼玉県史』資料編5)。尊氏が継承した北条氏遺領は、後に鎌倉府の成立とともに、鎌倉公方直轄の領地(鎌倉府御料所)となった。

【霜月騒動 一二八五(弘安八)年一一月、安達泰盛一族が誅せられた事件。安達氏は外様御家人の代表格で、執権北条氏との血縁関係を重ね、幕政上の要職を成してきた。騒動の表向きの原因は、泰盛が子宗景を将軍の座に据えようとしていると、御内人筆頭(内管領)の平頼綱により、讒訴されたためという。実際は、譜代の外様御家人と、新参の御内人との権力闘争の帰結であった。泰盛は蒙古襲来後の御家人の恩賞問題に際し、御家人の積極擁護や将軍権威確立の政策を取ったが、平頼綱たち御内人にとっては、政権獲得上の大きな障害であった。両者の確執は、それまで蒙古襲来という一大国難への対処と、執権北条時宗(一二五一~八四)の存在が抑えとなっていたために表面化しなかったが、時宗の死でそのタガが外れ、わずか一年で騒動に至った。騒動での自害者は五〇〇人以上といわれ(「梵網戒本疏日珠鈔」)、鎌倉幕府内の政争上、最大の規模であった。安達一族および連座した御家人たちの所領は著しく没収された。なお、安達氏と足立氏を同族とする系図があるが(新訂増補国史大系『尊卑分脉』第二篇)、非常に疑わしい。参考までに略系図を示す。


【北条得宗家 鎌倉幕府では、源氏将軍が三代で絶えると、最有力御家人である北条氏が、源氏の外戚の地位を利用して、執権として実権を握った。時頼(一二二七~六三)のころから、得宗家と呼ばれる北条本家筋に権力が集中するようになった。得宗は義時の別号(得宗・徳宗)に由来する。時頼は幼少の嫡男時宗が成長するまでの中継ぎとして、一門の長時を執権とした。以後、北条氏家督と執権職は一致しなくなり、得宗専制と呼ばれる政治形態が進行する。北条氏の執権は一六代を数えるが、得宗家として実権を握った者は次の通り(数字は執権代数)。

(一)時政―(二)義時―(三)泰時―□―(五)時頼―(八)時宗―(九)貞時―(一四)高時】

足立大炊助という人物

残念ながら足立大炊助に関する資料はなく、「丹波足立系図」にもそれらしき人物は見出せない。しかしながら、以上のような歴史的背景を踏まえて、大炊助がどのような系譜や立場の人物だったのか考えてみたい。

①大炊助は渕江足立氏か…大炊助の領地に「渕江郷石塚村」とある。このことから、彼を「渕江足立氏」の家系とするのが有力である。しかし、河田郷は、弟遠村が名乗った「川田谷」と同一地名と考えられ、大炊助は元重と遠村の両方の子孫の領地を継承したことになる(殖竹郷については不明)。おそらく、分家を重ねていくうちに、断絶した家も現れ、残っている家に合併相続されたのではないかと考えられる。鎌倉時代初期までは、庶子に分割相続させることが可能だったが、代を重ねるうちに、次第に零細化し、鎌倉中後期には嫡子のみの単独相続へと移行していった。いわゆる惣領制の崩壊である。このことは足立氏も例外ではなかった。大炊助の家系は、断家を合併相続しながら脈々と続いてきた足立氏と思われる。しかし、現在のところ、渕江足立氏の系譜であるのかどうかは、断定する資料を欠く。

②御家人か御内人か…(頭注)御家人であった足立直元は、霜月騒動で所領を没収されてしまったが、【資料2】は、没収されずに引き続き足立郡内に所領を有した足立氏がいたことを物語っている。大炊助の家系が、霜月騒動当時、御家人であったのか、御内人であったのかは知るすべはないが、いずれにしても騒動に連座しなかった一族であったといえる。または、没収された一族の領地を継承したとも考えられる。また、室町時代に至っても所領を有しているので、鎌倉幕府滅亡時に北条に加担せず、そのため足立郡を継承した足利氏によって安堵されたのであろう。

 【資料2】に記された所領が、どのような経緯で大炊助の代に至ったのかは、こうした推測によるしかない。いずれにしても、やがて御料所として収公され、一三九七(応永四)年、黄梅院に寄進されることになったのである。大炊助が所領を失った時期・理由については定かではない。

【御家人・御内人 御家人とは将軍の家人(家臣)のことである。足立氏は頼朝以来の御家人であり、執権北条氏も始めは他と対等の御家人であったが、対抗勢力を次々と排除して幕府の実権を握った。やがて得宗専制期になると、得宗被官や御内人と呼ばれる得宗家の家人たちが発言力を持つようになった。彼ら御内人には、元来北条に仕えていた者もあれば、元は御家人であったが、嫡子単独相続の過程で困窮し、北条に身を寄せることで家を保つ手段を選ぶ者もいた。足立氏の中には御内人の道を選んだ者もいたと思われる。やがて、御内人は有力御家人と確執を深め、その結果として霜月騒動に至る。その後は、得宗家と御内人による幕府政治が展開された。御内人の筆頭は内管領と呼ばれ、貞時期の平頼綱、高時期の長崎氏の権勢は有名。】