【資料4】関東管領上杉憲実奉行人連署奉書

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円覚寺黄梅院雑掌(ざっしょう)申す、武蔵国足立郡内河田郷領家職の事、足立大炊助跡として、去る応永四年七月廿(二十)日御寄進の旨、当知行(ちぎょう)今に相違(そうい)無きのところ、大井五郎左衛門尉、豊島十郎牛田と号す跡と混ぜ、押領の由(よし)、太(はなは)だ然(しか)るべからず、且(か)つは当院・当知行の実否(じっぴ)と云(い)い、且つは牛田十郎跡の篇(かきもの)を混領(こんりょう)すと云い、巨細糺明(こさいきゅうめい)致し、起請(きしょう)の詞に載せ、注申せらるべきの由に候なり、仍(よ)って執達件(しったつくだん)の如し、

  正長元年六月廿一(二十一)日   前遠江守(雑賀)(花押)

                  前筑前守(明石行実)(花押)

   大石隼人佑(憲重)殿

一四二八(正長元)年、河田郷を押領される事件が起こり、黄梅院はそのことを鎌倉府に訴えた。訴えによると、大井五郎左衛門尉という者が、豊島十郎の跡と混同して河田郷を押領してしまったという。鎌倉府は、黄梅院の河田郷知行は応永四年七月二〇日の寄進(【資料2】)に基づき間違いないものであるから、大井の押領を遺憾であるとの裁決を下した。この古文書は、関東管領上杉憲実の命により、武蔵守護代大石憲重が、その実否を糾明するために遣された時のものである。その結果、黄梅院の訴えは認められ、同年八月二二日には、河田郷はもとの黄梅院に帰した(「関東管領上杉憲実奉行人連署奉書」)。


関東管領上杉憲実奉行人連署奉書(黄梅院文書、写真提供 鎌倉国宝館)

 ところで、大井が混同した豊島十郎は、「牛田と号す」と記され、後段では「牛田十郎」と呼ばれている。牛田という地は、現在の東武線牛田駅を中心とするあたりではないだろうか。この地は、隅田川と接してすぐ豊島郡であり、豊島氏一族の所領となっていても不思議では無い場所である。当時の足立区内の領主の一人として興味深い人名である。ただし「跡」とあるから、当時は牛田十郎の領知ではない。大井の押領事件については、なぜ牛田十郎の跡地を押領しようとしたのか(争いがあったのか)、また、本当に混同したのか、それとも混同と称して故意に押領したのかは一切不明である。

 また、一四四〇(永享一二)年には、武蔵国賀美郡のうちの石神村桜堂在家(埼玉県上里町大字神保原付近)を、青木山城守という者に押領されてしまった。黄梅院は、この時も鎌倉府に訴え出て、もとのように取り戻した(「関東管領上杉清方奉行人連署奉書」「武蔵国守護代長尾景仲遵行状」)。

 その後、関東地方が戦国の様相を呈してくると、黄梅院の保護者である鎌倉府の権力が弱体化し、今までのような訴訟の効果も薄くなり、寺領経営も危機に瀕するようになったと思われる。一四五七(康正三)年の「黄梅院領知行注文」には、古河公方(頭注)足利成氏が承認した、当時の黄梅院領が記されている。

【古河公方 一四五四(享徳三)年、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことをきっかけに、享徳の大乱が起こった。翌年室町幕府は上杉氏の援軍として成氏追討軍を派遣するが、成氏は下総国古河に拠点を移して交戦した。以後、成氏およびその子孫の系統を古河公方と呼ぶ。【資料5】は、享徳六年の年号が記されているが、実は享徳四年に康正に改元されている。成氏が室町幕府に反抗して、享徳年号を使い続けたことによる。】