本地区には足立区唯一の旗本領があった。島根にあった沢宗久(さわむねひさ)の知行所(ちぎょうしょ)(所領)である。ここでは彼の来歴を『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会、一九六五年)と『武蔵田園簿』(近藤出版社、一九七七年)によりながら見ていく。初代の宗久は豊臣秀吉の養子・秀次に仕えていたが、秀次が嫌疑をかけられ自殺した後、一五九六(慶長元)年に徳川秀忠の家臣となった。
その後、一六〇〇(慶長五)年の関ヶ原の戦いと一六一四(慶長一九)~一五(元和元)年の大坂の陣では秀忠の守衛にあたり幾度か戦いに臨んだ。この戦功によって一六一六(元和二)年一二月一一日にはじめて所領として島根村のうち一六〇石を与えられ、さらに鷹場を管理する鳥見役となった。
その後、一六三一(寛永八)年には奥方番となり、さらに四二(寛永一九)年には領地を武蔵国幡羅郡東別府村(埼玉県深谷市東別府)の一〇〇石を加えられて二六〇石の旗本となり、この年七六歳で没している。この宗久だが、子孫が無嗣断絶したために詳しいことが判らない。仮名(けみょう)(名乗り)は九郎次郎、九郎兵衛、また実名(じつみょう)も宗久という名前だけではなく宥直(ひろなお)という名前も伝わっている。
この沢氏の知行地は、子供でやはり鳥見役をつとめた長左衛門(ちょうざえもん)、その子の九郎兵衛(くろうべえ)(宗久と同名の孫)の代に至るが九郎兵衛の代で無嗣断絶となった。
宗久の孫の九郎兵衛が何年に無嗣断絶となったかは不明であるが一六四九(慶安二)年頃の数値を書き上げた『武蔵田園簿』に知行地が記載されているので、この頃までは存続していたようである。そして島根にあった知行所も、この断絶と同時に幕府直轄領に戻ったようである。なお長左衛門の弟清兵衛久吉は別の旗本として存続していく。