村の基準生産量を表す石高を見ると四か村の合計で、江戸時代前期に二四七六石余、のち「元禄郷帳」の段階で一九六九石余、一八三〇年代の「天保郷帳」の段階で一四八八石余となり以後明治初年まで変わらない。
この数字を見ると江戸時代前期から石高は減少傾向にあるように見えるが、「元禄郷帳」段階での減少が著しい。栗原村だけが「天保郷帳」の段階で減少しているが、これは先に見たとおり栗原村の検地施行が他村と比べて遅れたためで、一七〇二年の検地の結果数値(四七一石余)が「元禄郷帳」編集時に間に合わず、「天保郷帳」の段階ではじめて反映しているためと考えられる。
つまり本地区で、一六九五(元禄八)~一七〇二(元禄一五)年の間に実施された検地で、江戸時代前期の二四七六石余から一四八八石余へ一気に四〇%もの減少を見せるのである。なお一般には、元禄時代は耕地が拡大し石高は増加の傾向を見せており、本地区の事例とは異なっている。
この元禄年間の石高減少の要因であるが石高の基準の問題であろうか、現時点では判断できる資料が無く、全般的には今後の課題であるが、一つは次に触れる用水の問題があると推定できる。