梅島地区は見沼用水、後の見沼代用水の末流部に位置する農村であった。当初は伊奈忠治が用水源とするため寛永期(一六二四~四四年)に造成した見沼溜井を水源とする水系に属していた。この溜井は八丁堤を建設して芝川を堰き止め、これによって造成されたもので本地区を含めた周辺地域への灌漑用水の供給が目的であった。
ところが溜池は水深が浅く、時が移るにつれ土砂の堆積が進み、元禄年間(一六八八~一七〇四年)には貯水能力の低下が発生していた。そこで溜池の有効活用と新田開発を目的に一七二三(享保八)年、八代将軍吉宗による享保改革の一環として紀州藩出身の井沢為永を勘定奉行配下に登用し見沼の干拓が計画されるようになった。