宝暦九年の浚渫争論

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別欄に紹介する一七五九(宝暦九)年の古文書では中央本町の最東部である現在の四家交差点付近を流れる用悪水堀(花畑のバス通り添いにあった用水)の浚渫を巡って嶋根村・栗原村・小右衛門新田らの人びとが争い、村々が協議して取り交わした示談書である(青井・鶴飼家文書。『足立区史』所収)。

 これによると見沼代用水系の最末流に位置する六月新田(現六町)から普賢寺橋(現五反野小学校付近)に流れる用悪水堀のうち一四一四間が問題となったようだ。この水路で前年の一七五八(宝暦八)年にこれまでの慣例と異なる浚渫が行われて争いが発生し「出入」に及んだという。しかし翌年、平等に通水するよう用水沿いの村々である六月村(現六町部分)・嘉兵衛新田(現西加平部分)・保木間新田(現・青井、別名二ツ家新田)、嶋根村・栗原村(現青井・中央本町の一部分)、小右衛門新田(現中央本町の一部)の村々が協議を行って合意を得たというのである。

 その合意内容には、ある場所の浚渫は五寸まで、またある場所の浚渫は七寸までといった具合に、寸単位で浚渫の深さを決めている。