安永八年の排水量争論

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こうした争いは絶えず一七七九(安永八)年にも争論が発生して取り決めが行われている。これもやはり前項と同じく八条道沿いの用水路に関する争論である(一七七九年「乍恐書付を以奉申上候」、青井・鶴飼家文書。『足立区史』所収)。この時は対立する村々が鮮明となり、用水の上流部と下流部という次の対立軸が発生していた。

 上郷…嶋根村・栗原村・小右衛門新田・六月村

 下郷…次郎左衛門新田・嘉兵衛新田・保木間村

この二つの村々は定杭を建てて水の流れを管理していた。特に水田からの排水時期を迎えると一定量の排水を超えないよう排水量規制に取り決めていたが、嶋根・栗原・小右衛門・六月の上郷村々は排水量規制枠の撤廃を求めた。しかし下郷では排水できず耕地が冠水すると訴えた。この対立は長く争いとなって「困窮」したが、六月村が双方を説得して排水枠の規模を調整し争いながらも、上郷と下郷の間で協議して取り決めが結ばれているのである。

 この文書の中でもう一つ注目できるのは、村々と代官の関係である。一つは取り決めは代官伊奈氏の役所に報告するという保障を取り付けた上で、上郷と下郷の村々で証文を取り交わしていることで、村々が取り決めの効力を確保するため、代官に報告するという形をとっていることである。つまり代官を利用するという村々の動きが見える。これを明確に述べているのが主文中にある「其節之訴状は双方願ニ付御下被成下候、」という文言で、一旦訴訟を起こしておきながら、訴状を村側の都合で取り下げているのである。争論と訴訟というと代官所が大岡裁きよろしく村々を指導するようにイメージしがちだが、ここでは村々が代官所を利用している姿が見えるのである。

 先の一七五九年の浚渫に関する争論と、後段の一七七九年の排水規制に関する争論は、平坦な用水最末流部に位置する農村だった本地区が、給水(前者)と排水(後者)の両面で、村同志がたびたび発生した争論を通じて用水利用の慣行を形成していったことを物語っている。