このように見沼代用水末流に位置した本地区では、村々が協議して用水の利用を行っていたのであるが、水の利用は本地区内だけの問題ではなく、遠く上流の村々との調整も必要であり幕府の役人が調整に当たった。見沼代用水の普請自体が御普請場(幕府の普請場)で、普請役用水掛の役人が派遣され、村々の惣代とともに水の管理が行われていたのである。
国立国会図書館に、一八五三(嘉永六)年の用水掛小川金之進の記録が残っているので往時の様子が見出せる。この資料は一八五三(嘉永六)年の「見沼井筋騎西領用水配中御用留」(国立国会図書館蔵)で、幕府用水掛の役人はさきの小川金之進のほか林敬三郎・和田源太郎・武笠鍵蔵の四名だが、用水が走る見沼代用水東縁四ヶ領の惣代は次のように書き上げられている。
見沼代用水路東縁四ヶ領惣代
平柳領拾弐ヶ村惣代 谷古田領拾壱ヶ村惣代
領家村 本郷村
名主忠次郎 年寄忠右衛門
舎人領九ヶ領(村)惣代 渕江領三拾弐ヶ村惣代
舎人町 島根村
名主藤八 名主藤蔵
栗原村
年寄長右衛門
ここにあるとおり、渕江領で見沼代用水にかかる三三か村の惣代は島根村の名主藤蔵と栗原村の年寄長右衛門が担当していた。彼ら惣代の役割は幕府役人との交渉や文書の収受、廻状の村々への送付など多岐にわたっていた。
見沼代用水は延長が長く多くの村々にまたがって利用される。幕府領だけでなく旗本領や大名領など領主権も幅広いだけに、こうした幕府役人や領の惣代が関与する必要があった。