島根や栗原をはじめとする見沼代用水沿いの村々は、最下流に位置するという地理的条件と総延長が長いという代用水の構造上の条件から、水の確保が難しい土地柄であったことがうかがえる。
江戸時代はじめに代官伊奈忠治が築造した見沼溜池が機能していた時代には、本地区村々の生産力はピークを見せているが、溜池に土砂が堆積して、貯水機能が低下した一七〇〇年ごろには生産力は低下してしまう。そして見沼が干拓され代用水が開削されても、慢性的な水不足は打開できず、明治を迎えることとなるのである。
一方で一斉に田んぼから水を抜いたり、大雨に悩まされると排水が困難になるという状況であった。つまり本地区は洪水に見舞われる地域でありながら耕地への灌漑用水が不足するという一見二律背反のような状況が現出されていたのである。
『風土記』の栗原村の項には「流末故ニ水不足ナレバ干損アリト云」と端的に当該地区の状況が記されており、小右衛門新田の項には水害と干害がともにあるとして「水旱共ニ患フ」と、梅田村の項にも「水旱共ニ患アリ」と水害と干害にみまわれた本地区の農業経営上の困難さが記されているのである。
このように水田農村時代における梅島地区は、洪水と水不足という二つの困難な条件のもと、形成されていた。