一九一〇(明治四三)年の大水害を契機として、内務省の直轄で荒川放水路の開削工事が始まった。荒川放水路は今は荒川と名を変え、その流れは昔からそこにあったように周囲の風景に溶けこんでいるが、本来は首都東京の市街を水害から守るために開削された人工の河川である。
新水路の事業用地内に入る梅島村大字梅田字榎戸耕地、千住町一丁目西中沼耕地、四丁目元宿耕地五丁目川田耕地などの民間所有地などは、一九一二(大正元)年八月「内閣ノ認定公告ニ係ル内務省起業河川改修ノ為メ収用スベキ土地ノ細目」として公告、土地を収用されることになった。中央部に新河川が開削され町を二分された千住町は、後に町行政に多大な影響を受けるのだが、梅島村の南部、大字梅田の榎戸耕地二〇筆、川田耕地一筆が収用、買収されるに留まり、開削による直接の被害は少なかった。
一九一六(大正五)年から本格的な開削工事が開始されたが、新河川の中を湾曲蛇行して敷設されていた東武鉄道は、放水路計画のなかで河道の形成に直接、間接に関係する重大な障害物であった。
そのため南葛飾郡隅田村(鐘ケ淵駅)から南足立郡千住町(北千住駅)に到る間は、線路を変更して放水路右岸堤防の南に移し、北千住駅から西新井駅間の河川用地内を斜めに横断している線路は、新鉄橋を架橋して迂回させ、西新井駅に結ぶことになった。この線路変更事業は、一九(大正八)年一二月認可された。新鉄橋の工事と用地買収に入った東武鉄道は、二三(大正一二)年末に新鉄橋を完成させ、それに接続する軌道工事も終わった。放水路内に残った軌道敷地は、六月から取り除きが行われた。