八月一五日の終戦で、連合軍の占領下に置かれた東京には、戦災、疎開で東京を離れた人びとが戻りはじめ、更に海外からの引揚者も集中してきたため、住宅不足が一層深刻となった。一一月住宅緊急措置令を公布して応急簡易住宅の建設を図ったが、焼石に水という状態であった。戦後の一一月一日現在、一七万二四三七人まで落ち込んだ足立区の人口も、翌四六年一月一日には二一万九〇〇一人と僅か二か月で四万人近くも増加した。
極端な食糧難、住宅難、インフレが進む悪条件のため、四六(昭和二一)年三月都会地転入抑制措置令を公布し、官公吏と地域の学校教職員とその扶養家族、集団疎開の児童・生徒、および外国または外地からの帰還者以外の転入を制限した。このような悪条件の中でも東京への人口流入は止まらず、翌四七(昭和二二)年一二月都会地転入抑制法へと法が強化された。しかし、この法律は四八(昭和二三)年一二月末までの時限立法であったため、四九(昭和二四)年一月、東京への転入制限は必然的に解除された。この解除により東京の人口は、一転して激しい勢いで増加をはじめたのであった。足立区も例外ではなく、四八(昭和二三)年八月一日の人口二四万八九一人が、五〇年一月一日には二七万四八〇〇人余と急増した。旧梅島町と千住町堤北部のこの地域の人口も、三万九二七七人にものぼった。
一方、政府は四五(昭和二〇)年一二月戦災復興計画の基本方針を決定した。市民生活の向上、不燃都市の建設、公園緑地、交通施設や街路の整備など、戦前の都市の急激な膨張の弊害を除去するため、郊外に緑地地域を指定し、土地利用の規制を強化しようとした。この決定で翌四六(昭和二一)年九月、特別都市計画法が制定された。
特別緑地地域は、この法律に基づき四八(昭和二三)年七月指定された。広大な空地を持っている東京の周辺九区に、約一万八〇〇〇ヘクタールを指定した。区部の市街地が際限なく増加し続けるのを防ぎ、自然環境を残すとともに精選食料品の供給源を確保することにもあった。指定された当時の足立区の緑地面積は区総面積の四二%、二二三四ヘクタールにも達し、荒川以北をほとんど覆うものであった。地域内の建造物には建蔽率(けんぺいりつ)一〇%という、厳しい市街化抑制措置がとられたのである。
五〇(昭和二五)年五月戦前の 市街地建築物法は廃止され、新たに建築基準法が制定された。この法律に基づき、一二月足立区内の用途地域、緑地地域が決定された。
同年六月勃発した朝鮮戦争で、企業は特需景気に沸き労働力を求めたため、東京の人口は益々急増していった。翌五一(昭和二六)年六月公営住宅法が制定され、東京都も住宅難解消のため本格的に都営住宅の建設を開始した。各地で都営住宅が急ピッチで建設されたが、公有地不足に陥り建設計画も立たなくなってきた。そこで目が付けられたのが農地であった。
しかし、農地開放で創設された農地は、農作地以外には転用が制限されていた。このため農地法を改正し、地方公共団体が取得した農地は、農作地以外に転用することが認められ、都営住宅の建設も本格的に進みだした。広大な農地を持っていた足立区内には、この結果数多くの団地が建てられた。
この地域でも五二(昭和二七)年、引揚者用の住宅七八戸が島根二丁目に、五五(昭和三〇)年、中央本町五丁目日米富士自転車工場跡に二六〇戸、五六年から五七年にかけ中央本町一丁目二二八戸(当初は弥生町アパートと称した。)、五七(昭和三二)年島根四丁目アパート一〇九戸(現・一三四戸)、環七通り西新井陸橋際に栗原一丁目アパート二八二戸を建設、五八年島根四丁目に島根四丁目第二アパート八三戸、梅田三丁目元陸羽街道沿い荒川堤防際に、梅田三丁目アパート(八千代町アパート)九〇戸を建設、翌五九年島根四丁目第三アパート一五〇戸、島根二丁目には第二アパート一六三戸(現・二〇三戸、六三(昭和三八)年には梅田八丁目梅田亀田公園に隣接し三九九戸の梅田アパートが建設された。六六(昭和四一)年には土地区画整理事業を開始した東栗原土地区画整理組合の施行地区内(現一ツ家二丁目)に、東栗原アパート六一四戸が建設された。続いて六九(昭和四四)年平野一丁目の日光街道沿いに平野一丁目アパート一三〇戸、道海道沿い西側の中央本町四丁目には、六九年から七一年にかけ、中央本町四丁目三四三戸が建てられた。
島根四丁目第三アパート
梅島地区では戦後から高度成長期にかけて東京の住宅難解消のため、1951(昭和26)年の公営住宅法に基づき数多くの都営住宅が建設された。写真は当初59(昭和34)年に建てられた都住だが、現在はこのように鉄筋コンクリートの新しい建物への建て替えが進んでいる
七一(昭和四六)年平野運動場に向かいあい、平野三丁目アパート三八二戸が建設され、七六年(昭和五一)年にはこの北に区立平野保育園とともに三六戸が、中央本町四丁目にも同時に五三戸が建てられた。これは後に足立区に移管された中央本町四丁目第二アパートである。しかし、一九五〇年代に建てられた住宅は老朽化が進み、現在は高層アパートに建て替えられている。
六四年(昭和三九)年九月事業認可を得た栗原六月町土地区画整理組合施行地区(栗原一、二丁目)内には、六八(昭和四三)年公団住宅団地が完成し入居が始まった。
このように地域の田園の中には、忽然と住宅団地が各所に出現してきた。一九五〇年代後半には膨張する人口は、郊外に安価な土地を求めて広がり、市街地化に向かって益々拍車がかかってきた。
六四(昭和三九)年九月東武鉄道以東の環七通りの北部に、栗原六月町土地区画整理組合の設立が認可されたが、同組合は六五(昭和四〇)年に東武鉄道の西側にも施行地区を拡大した。六六(昭和四一)年五月、環七通りの北に広がる東栗原町、東島根町、小右衛門町、西加平町、竹塚町、六月町の飛び地などが錯綜する田園地に、東栗原土地区画整理組合が設立された。これら組合の事業によって公共施設が整備され、一般市民のために宅地の造成、供給も図られることになって、施行地区とその周辺は団地の建設などとともに、市民の住宅が益々急増して市街化の大きな要因にもなっていった。