地域に変革をもたらしたのは、一九二四(大正一三)年一〇月東武鉄道の線路変更で梅島、五反野駅の設置もそのひとつであろうか。交通の便が整ったことも要因であろう。関東大震災で市内から追われた中小の工場や人びとで地域は栄えてきた。加えて、三四(昭和九)年日光街道が開通してからは運輸交通の幹線となり、南部の地域は建築線の指定で道路も整備されるようになり、市街化は益々進みはじめ人口も増大していった。
梅島駅周辺から日光街道にかけた地域では、指定建築線で宅地を整備しただけでは、市街地としての将来に禍根を残すとして、最小幅員六m以上の道路を基に整備する土地区画整理事業に切り替えられた。この土地区画整理事業は、「宅地トシテノ利用ヲ増進スル」とした明治時代の耕地整理法を準用して施行されたもので、その区域は東武線南の梅田町から北の小右衛門町・千住弥生町・千住栄町・千住末広町の各一部、一九・四七ヘクタールにわたっていた。組合設立認可申請人は、通常代表者の外に何名かいるのだが、この梅島土地区画整理組合の設立認可申請者は、なぜか東島根町一九七五番地鴨下栄吉氏ただ一人である。
一九三七(昭和一二)年四月二六日組合の設立が認可され、以後戦時中も引き続き事業は行なわれたのであろう、四五(昭和二〇)年三月一〇日戦争の最中、仮換地処分が認可された。四九(昭和二四)年四月一六日換地処分が認可、八月二七日残務整理も終了、「組合はその目的とする事項を完成したので解散した」と告示された。
戦後の東京への人口流入は、止まるところを知らず益々増大し続けていた。建設省は四八(昭和二三)年七月特別都市計画法に基づき、区部において市街地が際限なく膨張を続けるのを防止し、緑の保全を図るため特別都市計画緑地を指定して、一般住宅の規制を強化した。その一方では宅地不足が進行し、個人住宅の違法建築が蔓延し急増していった。
五四(昭和二九)年五月戦後の復興のため定めた特別都市計画法は廃止されて、新たに土地区画整理法を創設し公布した。宅地利用の増進を図るとともに、公共施設の整備改善が第一目的となった現在の法律である。
五五(昭和三〇)年以降、足立区の人口増は年間二万五〇〇〇人にも達し、住宅、土地不足が深刻化し、スプロール化現象はこの地域にも現われ出していた。新法律が出来ても緑地地域の土地区画整理事業は依然抑制されていた。このため、無秩序な住宅の建設を阻止し、計画性のある健全な市街地に宅地の供給を図る、土地区画整理事業の必要性と導入を望む声が高まり、緑地の解除を求めたのであった。東京都ではこの対策のため、緑地地域内の一部で開発しても良いとする緑地選定地域が設定された。
足立区内では、環七通りと日光街道沿いの地域と常磐線沿線の地域であった。また、緑地地域で施行する土地区画整理事業は、緑地に替わる公園が通常より豊富に確保されるよう、施行地区総面積の八%以上を公園として提供することを条件に、部分的な緑地の解除を行った。これを契機として足立区をはじめ、周辺区部各地で土地区画整理事業の施行へ向けて準備が始まった。
事業の認可にあたる東京都は、市街地の設計で都市計画主要幹線道路および補助線道路の整備に重点を置いた。区内の主要幹線道路(放射一一号線、放射一二号線)、環七通りおよび一部の補助線は、一九二七(昭和二)年八月に内務省によって決定された道路であるが、補助線道路は四二(昭和一七)年一月放水路以北に、東京都市計画足立区道路三五路線が内務省により決定された。しかし、戦後の都市化が進むなか幾度か変更され現在に至っている。
このような情勢のなか、六四(昭和三九)年九月東武線東側、環七通り北の栗原町、六月町の地域に、栗原六月町土地区画整理組合の設立が認可されて、事業を開始することになった。この組合は更に七〇(昭和四五)年七月に事業を拡大し、東武線西側から西新井町との境まで、南は東武鉄道大師線北側から伊興町の境までを第二工区とした。
六六(昭和四一)年五月には環七通り北の東栗原町、東島根町、小右衛門町、西加平町および飛び地の竹塚町、六月町の地域に、東栗原土地区画整理組合設立の認可があった。
六九(昭和四四)年五月建設省は東京の特別都市計画緑地を全面解除したが、計画緑地区域であった足立区ほか八区に「土地区画整理を施行すべき都市計画区域」が決定された。これが後の東京都による舎人・入谷地区、足立区による高野および上沼田南の土地区画整理事業に繋がったのである。
栗原六月町土地区画整理組合の事業は、宅地の造成、公共施設の整備はもちろんのことだが、都市計画補助道路一〇〇号、二五八号、二五九号、二六〇号線の早期完成であり、東栗原土地区画整理組合は、東京都が建設に懸命であった環七通りの早期連結が特に最重要視され、補助二五六号、二五八号線の完成も急がれた。
環七通りの日光街道との交差部周辺は、東京都により既に買収済であり、組合による完成を待つばかりであった。六九(昭和四四)年八月、環七通りは一部分は片側通行ではあったが、北区神谷から葛飾区青戸八丁目(六号国道・水戸街道)までの区間の車両の通行は、取りあえず可能になった。