史料上、江戸時代になってから登場してくる「栗原」という地名の由来については、よくわかってはいないが、伊興の『応現寺過去帳』の一六四二(寛永一九)年八月一五日の欄に、「長阿弥陀仏 栗原皿沼 市右衛門弟」と記されたものが初見である。しかし、この「栗原皿沼」が、現在の栗原あたりを指すものなのかは検討の余地がある。
明確に現在の栗原につらなる地名として、一六四九~五〇(慶安二~三)年ころ幕府が作成した『武蔵田園簿』に「栗原村」とでてくる。
「栗原村」は、日光道中以東から綾瀬川にかけても、開発を進めたことから、現在の一ツ家や平野に多くの飛び地をもっており、これらの耕地も「栗原村」の村域であった。
その後、明治維新後の一八六九(明治二)年に、小菅県に所属し、七一(明治四)年、廃藩置県により、小菅県が廃止されると、翌、七二(明治五)年二月、新・東京府に引き継がれ、仮に「東京府第五大区一九小区」に編入された。翌年三月に東京府内の区画改正が行われ、栗原村は「東京府第十大区第五小区」に編入された。この大区小区制期は、「栗原村」のような江戸時代以来の「村」は、公にして否定されたとされるが、実質的には、貢租徴収などで「村」を基礎単位とした行政が進められていた。
一八七八(明治一一)年七月、郡区町村編成法公布にともない、「東京府南足立郡栗原村」となった。
このように、明治維新後、村域はそのままに、「栗原村」と称んでいたが、一八八九(明治二二)年に町村制が施行され、近隣の梅田村、島根村、小右衛門新田と共に合併し、梅島村が成立した。その結果、栗原村の村域は、「南足立郡梅島村大字栗原」となった。一九二八(昭和三)年には、梅島村は町制を施行し、「東京府南足立郡大字栗原」となった。一九三二(昭和七)年には、東京府下の五郡八〇か町村が東京市に編入され、南足立郡は足立区となり、旧「大字栗原」の範域は、「東京府東京市足立区栗原町」となった。しかし、旧日光道中以東、綾瀬川にかけてあった栗原町の飛び地は、近隣の島根町、小右衛門町などと錯綜していたが、一九三四(昭和九)年、新四号国道の完成にともない、島根町とともに四号国道で二分し、栗原町の飛び地を「東栗原町」として分離した。
その後、一九七一(昭和四六)年、栗原町と六月町のそれぞれ一部で、栗原一・二丁目が成立した。続く七四(昭和四九)年、栗原町と西新井町のそれぞれ一部で、栗原三・四丁目が成立した。現在の栗原一~四丁目には、旧六月町や西新井町も含まれるが、大部分が旧栗原町であったことから、「栗原」とされた(『足立区 町名のうつりかわり』)。