江戸時代にも近現代と同様、大小の地名が重層的に呼び習わされていたものと思われる。『風土記』によれば、旧本村域にあったズシとして「栗原厨子」「石塚厨子」「満願寺厨子」の記載がある。こうしたズシ名称のとは別に旧栗原村の本村域あたりは、元禄時代(一六八八~一七〇四年)、すでにいくつかの字に区分されていたと思われる。一七〇二(元禄一五)年の『武蔵国足立郡栗原村御検地帳(写)』によれば、本村域あたりの字名として八幡前道北(八幡道北)、花見堂・嶋根井堀北・蓮沼梅田井堀南・蓮沼梅田井堀北・鉦打前道東などがみられる。一九三〇(昭和五)年調査の『梅島町全図』にみられる旧栗原村の字名と、おおよそ類似の字名がみられるが、必ずしも一致せず、また、たとえ同じ字名であっても、それぞれの字の範囲が、昭和のものと同じであるかどうかは定かではない。しかし、江戸時代の地名が近現代にも引き継がれているのがわかる。また、この内、八幡前道北の字名から、近現代に字内の地点名となっていた「八幡前」という呼び名がすでに江戸時代からあったことがわかる。もう一つ、近現代には、「鉦打」という地字(今の東武線西新井駅周辺)境に鉦打道とよばれていた旧道があり、その東に旧栗原村分の「島根前」という字がある。このことから、江戸時代の「鉦打前道東」は、近現代の旧栗原分「島根前」(現梅島三丁目中部域)にあたる字名かと推測される。