室町時代にあった「石塚村」の名は、先述のように江戸時代になっても、残されている。島根小学校前の猿仏塚には、江戸時代前期の一六八一(延宝八)年に建てられた庚申塔が残されているが、そこには、「渕江石塚村」と記されている。しかし、幕府が一六四九~五〇(慶安二~三)年ころに作成した『武蔵田園簿』によれば、三〇年余前には、すでに行政的な村として、幕府が公式に把握する「栗原村」が成立している。このことから、「石塚村」は、猿仏塚周辺、現在の栗原一・二丁目あたりにあった「栗原村」の中の村であったと思われる。
おそらくは、江戸時代に入って、幕府が行政的な村としての「栗原村」を設定する際に、室町時代の「石塚村」は、「栗原村」の一集落となったのであろう。江戸時代後期には、栗原村の中には、「石塚厨子」のほか、「栗原厨子」や「満願寺厨子」など、ズシと称する小集落がみられる(『風土記』)。
これら、栗原村の中の「石塚」以外のズシが、江戸時代初めの栗原村成立時から、すでにあったかどうかはわからない。しかし、戦国時代から江戸時代初めにかけて盛んに行われた新田開発の進展によって成立したいくつかの小集落を、江戸時代前期に幕府は、小集落相互の関係も考慮して、古くからあった「石塚村」とあわせて、「栗原村」として行政的に編成したものと思われる。