江戸時代後期、一八三八(天保九)年の栗原村の戸数は、一〇六軒で、人口は六一二人であった(佐野家文書)。明治初年には、栗原村の戸数は一一四軒、人口は七一六人であった(『東京府志料』)。
ただ、これらのデータは、江戸時代に栗原村とされていた、現在の西新井栄町北部、一ツ家、平野あたりなどの戸数、人口も含まれている。
明治三六年の『東京府南足立郡梅嶋村縮図』によれば、旧栗原村本村域には、六〇軒の屋敷地がみられる。各集落ごとの戸数は、石塚ズシに一二軒、後栗原ズシに一八軒、満願寺ズシに三〇軒である。
今の栗原地区は、その内の栗原ズシ、石塚ズシ、それと満願寺ズシの北半分で構成されている。満願寺ズシの一五軒は、今の西新井栄町域に位置するので、それを除くと、今の栗原地区の戸数は、四五軒である。
その後の戸数、人口は定かではないが、一九三三(昭和八)年に、後栗原ズシでは二四軒になっている(「薬師堂修繕寄附者芳名木札」荒堀市郎家所蔵)ところをみると、全体的に漸増しつつあったようだ。
昭和三十年代に入るころから、栗原地区にも都市化の波が押し寄せ、家や人が少しずつ増え始めたという。そうしたなか、この地区は、一九六四(昭和三九)年に栗原・六月町土地区画整理組合を結成し、区画整理を施行しはじめた。それを契機に、戸数、人口が急増し始めた。