石塚ズシにある猿仏塚に並ぶ石塔三基の内、一六三七(寛永一四)年銘の一基には「奉唱念佛講結衆供養所」と表面に刻まれてある。このことから、石塚ズシでの念仏講は、江戸時代前半には行われていたことがわかる(「二 史跡と文化 路傍の石造物 石塚ズシの猿仏塚」)。その後、江戸時代の念仏講の様子はわからない。
清水平次郎さんによると、石塚ズシの念仏講は基本的には女性中心の講で、ズシ内の各家から一人ずつ出て行われたという。講員の女性が亡くなると、その家のお嫁さんが新しく講員になったというが、参加する女性がいない場合、男性が出た。一九二一(大正一〇)年生まれの清水さんの幼いころは、男性と女性が半分くらいずつであったという。
おおかた年輩者で、ときには若い女性もいた。
石塚ズシの念仏講は、一二軒で、当番の家を順番に宿として講員が集まり、念仏を唱え、念仏が終わると、料理がふるまわれ、みなで飲食して歓談した。そして最後には、宿となった家を称える言葉をみんなで唱えたという。
こうした場で、口伝の形で、先輩の講員から念仏を習い、後輩に伝えていった。講員の年長者が先達、副先達となって、念仏講のとりまとめや、念仏を先導した。
念仏講で使われる太鼓と鉦は袋に入れて、次の宿となる家に回された。
二、三年前、先達、副先達が亡くなったことから、念仏講はやめてしまったという。