栗原地区は、見沼代用水の流末のため江戸時代から水不足になることが多かった(『風土記』)。昭和時代にも、田植えのころには水不足になり、また逆に低湿地地域であったため、稲刈りのときには水だらけになって困ったという話を聞く。米を作りつづけてきた長い間、絶えず、困難を強いられていたようだ。
そうした中、昭和初期、稲作は、麦作とともに行われる一方で、主に東京都市部向けの野菜作りが盛んになっていった。荒堀市郎さんによれば、戦前、本木堀をはさんで西の西新井地区は花、東の栗原地区は野菜と画然と分かれているといっていいほど、栗原は葉物栽培が盛んで、春はキャベツ、夏は枝豆、ナス、秋は山東菜、冬は小松菜、ネギなどを栽培していたという。葉物がつくられた理由はいくつかあるが、栗原地区の土が「ヘナカチ」(重くて固い粘土質)だったことである。
特に夏の枝豆、秋~冬の山東菜(漬菜)の栽培には力が入れられた。季節になると、どこの畑も枝豆や山東菜が一面に栽培されていたという。
枝豆は、近隣の西新井で改良された中生品種の西新井オオザヤ、北海道で改良された早生品種のソデフリを栽培していた。ちなみに、ソデフリは二月下旬に蒔き、四月下旬までに本畑に移植し、六月下旬から七月下旬まで収穫するものであった。
夏期には、枝豆の他にも、白瓜やナス、キュウリなどを作っていた。これらの野菜が終わると、山東菜の栽培が始められた。
個々の農家による、一代交配が行われ、優秀な品種が精選され、「栗原山東菜」の名で、人気が高まった。農家によっては自家製の種を近隣農村に販売に歩いたものもあったという(荻原ちとせ「足立のツマモノ栽培ー東京東郊農村の都市への志向ー」)。
戦後、次第に宅地化が進むと、用水堀が汚染し、稲作への被害が出始めた。そのうえ「汚染米」として栗原の米の評判が悪くなった。このため、昭和二十年代前半ころには、やむなく水田を全面的に畑に切り替える農家もでた。例えば、石塚ズシの清水繁治さんの家では、戦前から米と野菜を半々で作っていたが、野菜づくり一筋に決めた。主に「栗原山東菜」や「西新井大ザヤ」の枝豆栽培に力を入れたという。
このころ、清水(繁)さんのように、葉物、特に山東菜づくりに比重を移す農家がさらに増えたようだ。しかし、戦前からの山東菜の連作がたたって、戦後、根瘤病による被害が広がり、山東菜のみならず、枝豆、大根、カブ、小松菜まで全滅してしまったという。
こうした被害をきっかけに、清水(繁)さんは、一九五一(昭和二六)年から、山東菜などをやめ、サラダ菜などの洋菜に切り替えたという。
同じころ、戦後から進み始めていた市街地化がさらに進展していたこともあって、広い畑を使う枝豆、山東菜を栽培する農家が減り、すでに大正末期から昭和初めに始まっていたツマモノ栽培へ、栗原の農業の重点が移される。ツマモノ栽培の方法にも工夫が加えられ、栗原の主要産物となっていくことになる(本節「ツマモノ栽培」参照)。また、栗原地区の北東部の昔の石塚ズシでは、ツマモノよりも、戦前から始められていた花卉栽培に力を入れていった。