ツマモノ栽培の興隆

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昭和三十年代には穂紫蘇と花穂を中心に栽培し、種蒔きから収穫まで、二、三か月なので、随時出荷でき、一年中、繰り返して栽培されるようになった。

 ちょうどこのころは、高度成長期を迎え、人びとの生活が豊かになりツマモノ需要も伸びた時代であった。それにつれて、作付面積を拡大し、設備投資も行われていった。また、出荷にあたって工夫したのもこのころのことという。栗原、本木などの区内のツマモノ栽培農家は、ツマモノの出荷専用に「ツマ箱」といわれるベニヤなどの軽い木材を使う木箱を開発したという。このツマ箱は木箱のため通気性があり、ツマモノの鮮度が保たれた。このツマ箱の開発で、それまで、葛飾区下千葉で盛んだったツマモノ(メジソ)栽培を圧倒して、栗原をはじめとする足立区域は、東京近郊で唯一のツマモノ産地となった。


ムラメを「ツマ箱」に詰める作業
(栗原4丁目・1995<平成7>年)

 昭和三十年代は、今ほど保冷、輸送手段が整備されていなかったこともあり、東京から離れた地方は、東京都心部の市場に参入することができなかった。

 このため、栗原、本木などの足立区域のツマモノ栽培農家が、都心部の需要を独占し、最盛期であったといわれている。このころの栗原の農家は畑地のほとんどをツマモノ栽培地としていたという。

 ツマモノの収益は、昭和三十年代後半には、一〇〇〇万円代の収入が可能になったという。こうした高い収益のあがるツマモノ栽培は、やがて、栗原から区内近隣へも広がっていった。