ツマモノ栽培への打撃

95 ~ 96

愛知県豊橋市の農家に穂紫蘇、花穂の種を栗原の農家が譲ったことをきっかけに、豊橋でも栽培がはじめられた。その上、昭和三十年代の末には、自動車が普及するなど輸送手段も整備され、保冷技術も発達した。東京から遠くても都心の市場に参入することが容易になった。これによって、都市近郊という条件は、絶対的な条件ではなくなった。こうした状況を背景に、ツマモノ栽培を始めた豊橋も、都心の市場に参入することになり、次第に足立の穂紫蘇、花穂をしのぐようになっていった。

 加えて、昭和三十年代後半には、課税方式が、反当たりごとの標準課税から実際の収支に課税されるようになった。これによって課税額が増大したことから、ツマモノ農家は、打撃をうけたという。各農家が申請に不慣れだったこともあって、一九六三(昭和三八)年には、区内のツマモノ農家によって芽物協議会を結成し、この協議会を通じて税金の申告を行うようにした。

 また、昭和三十年代には都市化の波が押し寄せ、栗原でも無秩序な宅地化が目立ちはじめていた。

 このように、新興生産地の台頭、新たな課税方式や都市化の波といった打撃を受けた栗原では、新たな対応をせまられはじめた。


昭和40年代前半の栗原2丁目付近・宅地化が進んでいる(宝谷洋さん提供)