昭和三十年代、高度成長期に入ると東京の人口は年間二五万人ペースで増加し始めた。都心部では土地不足・住宅不足が深刻化し、郊外に宅地が不規則に広がっていくようになっていった。東京近郊農村としての性格をもっていた栗原地区でも、まがりくねった細い農道沿いに家が建ち始め、田畑も次第に宅地化されていくようになった。また、そのころ住宅公団が栗原地区の東武鉄道東側の土地を買収しはじめていた。
そうした栗原の現状をみて、地元の牛込定吉、藤次孝次郎、木島辰五郎などを中心とする人たちは、将来、栗原地域は無秩序に宅地が密集する町になってしまう危惧をいだいた。とにかく土地区画整理事業を通して、新しい町づくりをしよう、と他の人びとにも賛成を呼びかけた。そうして、一九六〇(昭和三五)年八月、土地区画整理組合設立準備委員会が発足した。発足はしたものの、初めてのことで、委員会内の皆が不安で、若手の人びとの間には批判的ムードさえ広がっていた。
当初、栗原と、隣の六月地区を共に区画整理する構想があったが、すでに東武線東側で土地買収を進めていた住宅公団は、土地使用を急ぎ、早急な組合設立の要請をしてきた。そこで、東武線東側区域を第一工区、西側を第二工区に分け、第一工区から事業を進めていくことにした。
一九六四(昭和三九)年一〇月一九日第一回総会が、島根小学校において開催され、役員、評価員の選任、三九年度収支予算、借入金、工事請負規定などを審議し、栗原・六月町土地区画整理組合は正式に設立された。この組合は、施工区域内に土地の権利をもつ人びとによるもので、その多くは地元の農家であった。この土地区画整理組合が事業を進める形で、農村から市街地への大改造がはじめられた。
しかし、そう順調にはいかなかった。成功に終わった第一回の組合設立総会でもその直前、権利者の間に組合執行部に対する疑念の風評がたったという。施工区域内の栗原地区には農家が多かった。区画整理が本格的に進みはじめて後も、市街地化を進めることで、将来、土から離れた暮らしになるかもしれない不安感が消えなかったようだ。そうした不安感は、区画整理を進めていく様々な行程で事業への抵抗感としてもあらわれた。
組合発足後、まず、土地の評価を厳密に行う。都市整備計画に沿って建設される道路が家や田畑にかかる場合には、その土地の評価を考えて、新しい土地に移転してもらう。しかし、土地の移転交渉は難航した。役員の人びとは、一軒一軒、何度も通って説得にあたった。年来の知り合いだけにつらい思いをしたという。近くに移転するだけでも、先祖代々住みつづけた土地から移転することに抵抗感をもつ人も多かった。また、移転しないまでも、先祖代々祭ってきた屋敷内の稲荷社敷地部分が、計画道路敷地にかかってしまった家があった。その家の人は、「お稲荷さんを動かすと、自分が死んでしまから動かすわけにはいかない」といって反対したという。このような禁忌観は、土地への思いからくるものであろうか。
また、周辺の土地は低く、水害も多かったので、排水路を整備しなければならなかった。第一工区内の自然流水は、北西から南東方向に区域内を斜めに流れていた。このため、東武鉄道の線路をくぐって流れてくる水を第一工区内に入れないようにするため、東武線軌道沿いに5号排水路を設置し、そうした自然流水を同工区西境沿いに、梅島地区に流すようにした。しかし、従来の自然流水は、栗原地区と、その先の島根地区にも流れ、耕地をうるおしていた。そうした自然流水が栗原地区で止められてしまった島根の農家の人びとは、水不足の苦情を区に寄せたという。
排水路によって、低湿地の水を排水し、盛土をし、地盤を市街地に適したものに改造する。土地の所有者から少しずつ土地の提供を受け、計画的に道路を敷設した。その道路工事に際しても、排水の問題がつきまとった。例えば、東西を走る都市計画道路二五八号は、「丼耕地」と呼ばれる土地が丼の底のようになっており、一端たまった水がなかなか出ていかない低湿地に道を通そうとする計画道路であった。一九六八(昭和四三)年には、その計画道路の両側に公団住宅が建設されたため、道路だけがまわりよりも低くなり、池のようになってしまった。すでに公団住宅では入居が行われていて、住民からの苦情が組合に寄せられるようになった。一九六八(昭和四三)年から七〇(昭和四五)年にかけて工事は実施された。夜通しの排水、降雨で水が出れば、また排水と、難工事を強いられたという。
第一工区は、一九七四(昭和四九)年には、竣工記念碑を建立、八四(昭和五九)年に完成式を行っている。七〇(昭和四五)年には、東武線西側の第二工区(栗原三丁目の一部と四丁目)の工事も始まり、区画整理のめどがついた八三(昭和五八)年には、竣工記念碑が建立されているが、東武線と都計第二五八線立体交差工事や、下水道枝線工事などの諸工事をはじめ、諸認可の申請事務など、なおもやることが多かった。このため、第二工区の事業がほぼ完成をみたのは九五(平成七)年のことであった(『栗原・六月町土地区画整理組合事業第一工区完成記念誌・郷土新生』『栗原・六月町土地区画整理組合事業第二工区完成記念誌・ふるさと賛歌』、荒堀市郎氏談)。