東武伊勢崎線沿線にあるが、静かな環境の寺である。現在、真言宗豊山派で、山号は無量山という。本尊は阿弥陀如来である。昔から主に後栗原ズシの人びとから信仰を集めている。江戸時代から西新井大師総持寺の末寺(一時期、門徒)であったが、現在は長谷寺の直末となっている。しかし、当寺の主管は、代々総持寺住職がこれを兼ねている。荒綾八十八ヶ所霊場の第十六番である。
開山は不明だが、創建は、鎌倉時代であると伝えられている。江戸時代は荒廃していたが、榮祐阿闍梨(えいゆうあじゃり)によって立て直された。『風土記』によれば、榮祐は、一七二二(享保七)年に亡くなっているが、当寺の中興開山とされている。
そのころ、境内に、天神社があったことが『風土記』に記されている。
明治時代の初めには、西新井大師総持寺の門徒となり、宗派名の改称に伴い、真言宗新義派となった。一八七二(明治五)年ころは、同じ栗原村内の満願寺の真快という住職が兼務していた。その頃、檀家数は二五軒であった。
一八七七(明治一〇)年には、当寺の住職は、中本寺である総持寺の住職佐伯堅渓が兼務するようになっている(『寺院明細』)。
一九〇〇(明治三三)年に宗派名の再改称に伴い、新義真言宗豊山派となった。その後、戦時中に、この宗派は、真言宗各派合同のため、解散したが、戦後の四六(昭和二一)年以降に再び分離し、真言宗豊山派と称するようになった。
一九四五(昭和二〇)年四月一三日夜の空襲で、栗原国民学校校舎が全焼したため、同院は同校の第四教育場として授業を行ったという歴史ももつ。