八幡社跡(栗原三丁目付近)

107 ~ 108

 一七〇二(元禄一五)年『武蔵国足立郡栗原村御検地帳(写)』(清水平次郎家所蔵)によれば、すでにそのころ「八幡社」が栗原村にあり、満願寺の管理にあったことがわかる。『風土記』によれば、江戸時代後期、栗原村の満願寺境内に八幡社があったとある。代々、満願寺の隣に屋敷があった水野喜一郎さんによれば、八幡社は、満願寺の境内にあったと伝え聞いているという。

 この社には、誉田別尊(応神天皇)の本地仏(本体)である阿弥陀が安置されていた。当時、天正二年(一五七四)三月に八幡社の社殿を再建した棟札が残されていたことから、当社は、天正二年以前から栗原村域にあったと『風土記』では推測している。また、「風土記」には、当時、土地の伝承として、この社は、もともと隣村の六月村の鎮守でもあり、その後、洪水の時、御神体が流されて、六月村に流れ着き、その時、六月村の鎮守として、八幡社を別に造営したため、当社は六月村の鎮守ではなくなったといわれていたことが記されている。この話がいつのことかは不明だが、『風土記』編纂当時残されていた慶安五年(一六五二)の棟札には、「六月村惣氏子」と記されていたことから、六月村の鎮守でなくなるのは、それ以降のことと思われる。


天正2(1574)年の八幡社社殿再建を記した棟札
(国立公文書館蔵『風土記』より写)

 しかし、六月村の鎮守である八幡社には、栗原村で伝えられていた話とは異なり、源義家伝説と結びついた話が伝わっている(『足立風土記稿』地区編9・淵江参照)。

 明治初年のころ、栗原村の八幡社は、同村の鎮守であった氷川社に合祀されたといわれる(本節「栗原氷川神社」の項参照)。

 古くは、栗原村の鎮守の氷川社よりも、八幡社の方が社殿が大きく立派であったという話が土地に伝わっている。

 八幡社跡地が満願寺周辺のどこかはわかっていない。