石塚ズシの猿仏塚(栗原一丁目四-二五)

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 ギャラクシティの北東の十字路角、島根小学校の前に、地元の人びとから猿仏塚とよばれ、親しまれている場所がある。元禄年間(一六八八~一七〇四年)には、「庚申塚」とよばれていたようである(元禄一五年「武蔵国足立郡栗原村御検地帳(写)」清水平次郎氏所蔵)。昔は、このあたりは、笹に覆われた六尺(約一・八m)ほどの小高い塚で榎木の古木が一本植えてあったという。今では塚も榎木もない。榎木の株は島根小学校に保存され、庚申塔や念仏講の塔が三基並び、屋根が掛けられている。

 中央にあるのは、寛永六(一六二九)年銘の板碑型庚申塔で、正面中央に「奉待庚申十六夜成就供養所」とあり、その左右に年月日が刻まれている。

 左にあるのは延宝八年(一六八〇)銘の板碑型の庚申塔で、正面には中央に「奉待庚申供養諸願成就」とあり、その右に年月日、左に「渕江石塚村大施主十六」とある。こうした金石文から、「石塚村」、つまり栗原村の石塚ズシの人びと一六人によって建てられた庚申塔であることがわかる(「一自然とくらし 栗原村の成立」参照)。

 庚申塔とは、六〇日ごとにくる庚申の夜、人の体の中にいる三尸(さんし)の虫が、天にのぼって、その人の良くない行いなどを天帝に告げるため、命が縮められるという中国の道教の教えにもとづいて、江戸時代に盛んに造立されたものである。

 右にあるのは、寛永一四(一六三七)年銘の板碑型の念仏講供養塔で、正面中央に「奉唱念仏講結衆供養所」とあり、左右に年月日などと刻まれている。


石塚ズシの猿仏塚

 この供養塔から石塚ズシでは、江戸時代前半には念仏講が行われていたことがわかる。

 明治時代の地図をみると、これら三基の石造物がある猿仏塚の前の道(鉦打道)は、旧栗原村と島根村との村境であり、また、この鉦打道を通って北上し、猿仏塚を過ぎると、すぐに旧栗原村の村道や旧島根村の村道が交わるこのあたりの交通の要衝地があり、そのあたりから、旧栗原村石塚ズシの集落が北方にかけて鉦打道沿道に展開している(「東京府南足立郡梅嶋村縮図(明治三六年)」遠山甚蔵氏所蔵)。こうしたことから、猿仏塚は、石塚ズシ集落の南の入り口であり、辻でもある場所に建てられたとみられる。また隣の島根村との村境にも位置している。

 この猿仏塚は、一九八二(昭和五七)年に足立区有形民俗文化財に登録されている。