猿仏塚や花見堂などの庚申塔群は、各ズシの集落の入り口や村境、村道沿いに建立されていることから、栗原村の石塚・後栗原・満願寺の三ズシそれぞれ共有の信仰対象とみられる。
もともと満願寺ズシの入り口あたりにあった庚申塔二基については、同ズシの水野喜一郎さんによれば、疫病などが入ってこないように建てられたという。
一般的に、こうした集落の入り口(ムラ境)では、よく疫病や災いなどが村に入ってくるのを防いだり、村で起きた疫病などを送ったりする道切という呪術が行われ、注連縄(しめなわ)を張ったり、地蔵や庚申塔が建てられたりする例がよくみられる。満願寺ズシの庚申塔の場合もそうした例と同様であることがうかがえる。石塚ズシや後栗原ズシの猿仏塚や花見堂も同様の性格であると思われる。
しかし、水野さんの記憶によると、満願寺ズシでは、戦前には疫病などを防いだりする道切の呪術は行ってはいなかったという。ところが、石塚ズシの猿仏塚のある小字名は、かつて「道切」と称され、猿仏塚が、疫病などのズシへの進入を防ぐ性格をもっていたことがうかがえるとともに、古くは道切の呪術を実際おこなっていたことも想定できる。他のズシでも同様のことが想定できよう。
こうした各ズシにとって特別な場所は、また、石塚ズシや後栗原ズシの場合は、隣村と旧栗原村の村境にも位置していた。こうしたことから、各ズシのそうした特別な場所は、江戸時代に形づくられていった行政的村としての栗原村にとっても特別な意味をもつ場所にもなり、栗原村への疫病などの災いを防ぐような性格も込められるようになったものと推測される。
そのことは、満願寺ズシの集落の東の入り口に位置し、石塚ズシの猿仏塚や後栗原ズシの花見堂とは異なり、隣村との境からも離れ、満願寺ズシの集落への疫病進入を防ぐ性格をもっていた同ズシ庚申塔が建つ場所に、江戸時代中期の一七六三(宝暦一三)年に建てられた庚申塔の台座に「栗原村」と刻まれていることからもうかがえよう。