見沼溜池からの見沼用水が利根川からの見沼代用水に代わってからも、用水下流部に位置する島根村の水不足は慢性的だったようである。低地帯に位置し、水害はありさらに水不足があったというのは意外であるが、総説で述べたように、江戸時代の古文書は多すぎる水と不足する水の両面を併せ持つ当時の様子を今に伝えている。
島根村は見沼代用水東縁の水系に属していた。一七八六(天明六)年には、伊興村を相手に、島根村や近隣諸村の渕江領村々が、幕府評定所に訴えを起こし、村毎の灌漑時間をとりきめた番水日割が取り決められると言う事件も起こった(総説参照)。
この時の番水日割によれば、島根村は本木堀と竹塚堀から、それぞれ取水して耕地を潤していたようである。