野菜から花作りへ

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日比谷家の三代目源蔵は、牛込氏の農業学校の生徒で、約三年通った。隣の机には、田園調布から通ってきていた園芸家で著名な森田喜平がおり、野菜の作り方の実務や英語を学んだという。野菜の栽培実務を教える教師は祖父の日比谷家初代浅次郎であったという。

 なかでも四代目日比谷之治さんは花卉栽培に尽力(後述)した。千代田区の日比谷公園内に日本菊花協会の設立に参画したり、菊花の栽培で研究を深化して不夜城と呼ばれるクロコマ種の改良に成功し、日本の農林大臣賞に該当するアメリカ(シアトルで行われた大会)のブルーリボン賞を受賞した経験がある。之治さんは謙遜し「たまたまアメリカ人の好みに黒がかった小豆色の黒駒が当たったのでしょう」と語る。之治さんはほかに足立花卉農業協同組合の創立三〇周年に功労賞を授与されている。

 しかし農業は一九六九(昭和四四)年でやめ、造園業を始め八八(昭和六三)年まで営んでいた。今は、花店を営む。全国一の葱作りも三六(昭和一一)年以後、土壌の変化も加え、葱はもちろん野菜もままならず、日比谷家は野菜作りから切花の花作りへと転作していったのである。