島根の郷中講中は、真冬の一二月から二月までは休むが毎月続いている。三月から一一月迄、毎月一五日に、八月は二〇日に開き、十五日講とよんでいる。毎月、各家を巡っていく。
まず初めに、守本尊のオショウゴウをおがみ、それから鬼子母神に読経し念仏をとなえる。その後に、当家の先祖の追善供養を行う。
かつて、島根には国土安穏寺関係で四つの講中があったが、毎月続けているのは、郷中だけになった。北講中は、お彼岸のみの年一回、念仏講は本番が陣屋で鐘を叩いた。島根上講中も一六七九(延宝七)年ごろ庚申待用具が伝来しており、講を催していたようであるが、念仏講に移りつつあった。真言宗来迎寺の月並み念仏の触鐘を行い、明治の頃には一〇軒程を回っていたようであるが、今はない。
郷中講中は、太鼓を使うが、この太鼓の寿命はおよそ二〇年であるが、今使っている太鼓はもう三〇年経っているいう。太鼓や守本尊など大切なものを月毎に次の家へ運ぶが相当な量である。
この念仏講を七〇年続けている榎本義憲さんは、「郷中講中が続いてきたのは、信仰心が強かったこともあるだろうが、心が洗われ元気が出てくるからだったのではなかろうか。テレビも無い娯楽もない時代だったから、農作物の情報交換など、寄り合って話し合うことが生きていくことに切実につながった。だから寄り集まることに意義もあり大切にされてきた。今は、互いが疎遠にならないように、互いの親交を深め合っているように思う。とにかく、私は念仏講でさわやかな気持になるのと元気が出るのがありがたい」と語る。
町名変更の時代があった。島根の名が消えようとしていた。このまま放っておけば永遠に島根の名はこの世から無くなるというときに、念仏講で話し合いをした。島根は、江戸時代から、寺子屋での教育も熱心に行われていて、古文書にも島根の名が書かれている。この島根の名を残したいと区役所に陳情し、環七通りから北側は、島根が地名に残った。
一九八七(昭和六二)年には、一二軒あった郷中講中も、二〇〇一年の今日、八軒になった。そんな中で、一月に一回がつきあえなくなってくる人たちもいる。当番の宿の世話を嫌がったり、年寄りの看護で出られなくなったりして講をやめた家もあった。その反面、続いてきた家は、何世代も同居していて幼いときから念仏講にふれてお経を自然に覚えた家庭や、講員が出られないときには代理が出席できる家は続いてきた。また、近親者を亡くし悲しみに陥っているとき、講中の人たちがお経をあげ供養してもらえるので、心が慰められると感激して続いてきた家もある。月毎に回っていくとき、念仏講を通じてその家の家族とのふれあいがある。
今回本編の調査で尋ねた鈴木基次さん宅では、小さなお孫さんも三人参加していて、一緒に太鼓を叩いたり、お経をあげるときには殊勝に座っていたりと、ほほえましい参加ぶりであった。そこに先祖を祭り、追善供養し、互いが互いをいたわりあい、悩みを相談し、子どもたちともふれあい、子育てにもかかわっていく郷中講中の姿があった。