祖師像と本間重次

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続いて本間重連をはじめとする本間一族は、この出会いによって日蓮聖人に深く帰依することとなり、ついには国土安穏寺の開山・日通聖人を世に出すこととなる。

 次いで重連の子、重元は、初転法輪の地として名高い中山法華経寺の第三世、日祐聖人に願って日蓮聖人の木像、すなわち祖師像を求めた。この来歴については、一七三三(享保一八)年正月の日付を持つ当寺の十九世・日宣聖人が編んだ「古縁起」(『足立区文化財調査報告書』No.3所収)に次のように記されている。

 その後、本間氏の一族は、深く法華経に帰依した。そして子孫も永く日蓮宗を仰ぐこととなった。

 とりわけ重連の次男、五郎重元は信仰に篤く、中山法華経寺の第三世・日祐聖人と会って、日蓮聖人の像を拝したいと懇願した。

 日祐聖人は重元の信心に感じ入って康永三年(一三四四年)に日蓮聖人の木像を彫刻して重元に授けることとなった。

 そして重元は、それこそ日照りの時大雨を願うように、この日蓮聖人の木像を頂戴したのである。

(原文、和漢文)

このように重元は、中山法華経寺の日祐聖人と会見し、その信仰心の篤さから、一三四四(康永三)年に日祐(注)が作成した日蓮聖人の木像(祖師像(注))を得ることとなったのである。

【日祐…下総千葉氏の出身と考えられる千葉胤貞の猶子。中山の法華経寺で、日蓮遺文の蒐集と護持につとめ、「本尊聖教録」を作成。日蓮の真筆・写本を管理する貫首制を確立した。】

【日蓮聖人の木像(祖師像)…この康永の日蓮聖人の木像の名称は、資料によって高祖像、祖師像などさまざまな名称があるが、本稿では資料上に登場する名称はそのままとし、本文中では便宜上祖師像という名称で統一する。】


開祖 日蓮聖人像(『天下長久山國土安穏寺』より)