見沼代用水

196 ~ 196

 稲作農業を支えていたのが用水で、小右衛門新田では見沼代用水の末流をひいていた。『風土記』では水利について「水旱共ニ患アリ」と水害と干害がある村であったと記している。総説で触れているが、見沼代用水の最末流に位置していたため灌漑時の水不足と、低地であるが故の水害という水についての二つの障害があったようである。小右衛門新田では見沼代用水の一支流である竹塚堀から分かれた用水を引いていた。小右衛門堀や槐堀などがあった。

 江戸時代の用水利用の実態については不明な点が多いが、小右衛門新田東端での事例が見出せるので紹介しておこう。

 小右衛門新田は東西に広がっており、東は現在の中央本町東部にまで及び、小右衛門新田東端の飛び地付近は、現在五反野駅前から花畑車庫に向かうバス通り(通称花畑街道)を流れていた八条道添用水(当時の呼び方)を利用していた。

 ここの用水利用について小右衛門新田は水利権交渉を周辺村々と協議している古文書がある(総説参照)。この中から小右衛門新田の動きを見ると一七五九(宝暦九)年の用水路の浚渫に関する取り決めでは名主善右衛門、年寄彦右衛門、百姓代六左衛門の名前が確認できるほか、一七七九(安永八)年の排水量に関する交渉では嶋根村・栗原村とともに用水上郷という立場で下郷村々(次郎左衛門新田・嘉兵衛新田・保木間村)と取り決めを結びんでいる。

 このときの小右衛門新田では名主伝右衛門・年寄久兵衛・百姓代四郎兵衛と村役人層は交代していることも判って興味深い。

 なお、この用水を利用した場所は小右衛門新田と言っても、現在の中央本町・青井方面になるが、江戸時代の小右衛門新田の歴史でありここに採録した。