東武線が旧日光街道を横切っていたため道沿いの梅島駅には踏切番小屋があった。この番小屋の横には草むらがあって、そこには蛇がいた。踏切番は、蛇を焼いてうなぎのようにして食べていた。食糧難とはいえのどかであった。
しかし、悲惨な出来事も起きた。駅のすぐ近くの八百屋に空襲の直撃で爆弾が落ちた。四五(昭和二〇)年三月四日のことである。八百屋は十人家族であったが、防空壕に避難していた五人が直撃弾で死んだ。押し入れに隠れていた者が生き残った。人生は一寸先はわからない。次いで三月一〇日のB二九来襲は、高射砲陣地があったためか、幸運にも避けることができた。だが、田口屋呉服店の場合は不運とかいいようがない。商店街は狙い撃ちされるだろうからと、商品の反物を島根村の田口家に預けてあった。ところが、四月一三日の空襲で預先に六角の焼夷弾三六個が降って、反物は跡形もなく燃え尽きた。皮肉にも店は無傷だった。預かった田口家は、今も空襲は気の毒で忘れられないという。
三月一〇日の戦争で危険を感じた映画監督は、急遽引っ越していった。その家の近くには池があり、しょうぶや桜の花が美しかった。のちに、魚を捕るために、ポンプで水をかき出し、「カイボリ」にした。すると、何万尺ものフィルムが出てきた。かけがえのないフィルムもあったであろうが、命にはかえられない時代であった。戦争で、どれだけ貴重な資料が失われたか、計り知れない。
なお本町内には陸軍の高射砲陣地が設置されていたが、これについては「総説」を参照していただきたい。