第四中学校創立から四年後の一九五一(昭和二六)年に不就学者の多かったことから、特に都教育委員会に第二部(夜間学級)を申請し、テストケースとして暫定的に許可され、七月一六日入学式、開校式を合わせ挙行した。夜間学級が開設された当時の様子について、同学級の後援会である藤苑会の谷田貝恵美子さんが「夜間学級は、終戦直後の混乱期に、家族の為に働く中学生にも義務教育をと、初代の伊藤校長先生が作られました」と述べている(「出会いを大切に」、『第四中学校 創立五十周年記念誌』、一九九七年。以下『四中五十周年』と略す)。
この学級の後援会として藤苑会がある。夜間学級のことを知った事業家の藤川和明さんと新宿駅長を務めた剣持さんという人物から、芳志十万円の寄付を受け五二(昭和二七)年に生まれた後援会であった。このことについて同会の遠藤幸男さんは、会の設立経緯を次のように述べている。
ある篤志家が東武線の車中から四中夜間学級の看板を目にし、四中を訪れて「自分も若い時に夜学に通い、つらい思いで勉強した。是非、夜間の生徒を励ましてほしい。」と、当時のお金で「金十万円」を校長に託したという。そこで学校での協議の結果、篤志家の名の一字を冠し、「藤苑会」とした。
ところが六八(昭和四三)年には資金が底をついたのである。当時の勝山準四郎校長は、PTA会長を終える日下部威さんに同会の存続を依頼、日下部さんをはじめとする人びとが会費制で夜間学級を支える制度を立ち上げたのであった(遠藤幸男「四中夜間学級と藤苑会」、『四中五十周年』所収)。
その後、社会の変化とともに夜間学級の役割も変化を遂げていった。これについて谷田貝さんは、「社会情勢も移り変わり、最近では中国残留孤児の家族や、アジアから移住した人びとも、日本語を学んでいます。年齢も十代から六十代に至るまで、電灯の下で一生懸命に励んでいます」(谷田貝「出会いを大切に」前掲、より)と語っている。こうした役割の変遷があるなかで、五一年以来、約半世紀にわたって伝統を紡いでいる。このことについて教職員だった千葉俊治さんが「創立五十周年記念座談会」で次のように語っている(『四中五十周年』所収)。
夜間学級が細々とした、生徒が少なくなって風前の灯の時代もあったかと思うのですが、昭和二十六年から今に至るまで続いているということは、やはり藤苑会の存在は絶対無視できない。先生方にも話したことは、区民が夜間学級は必要ないと判断した時には、いつでも潰される運命にあるという危険性のある存在なんだということです。そういう意味では、日下部会長さんを始めとした長年にわたる支えがあるということに対して、本当に感謝申し上げたいと思いますし、今後ともぜひ応援していただきたいと思います。
このように地域の人びとに支えられ、四中の夜間学級は、半世紀を迎えようとしている。蛇足であるが、こうした夜間学校の歴史と文化は、近年、山田洋次監督の映画「学校」の素材となって全国に知られるようになったことは有名である。