一ツ家・平野の呼称

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 一ツ家・平野は、現在は住居表示上の町名として使われているが、もともとは耕地名や地域の通称として使われていた地名であった。平野の方は、元禄検地帳に「平野耕地」があるように、元禄以前にはすでに耕地名として使われていたようだが、「平野」という文字が明記されているのは、平野神社の一八一七(文化一四)年の庚申塔である。

 一方、一ツ家の方は、はっきりと地名が記されたものは意外と新しく、一九〇九(明治四二)年の参謀本部陸地測量部作成の地図で、今のところ、江戸時代に一ツ家と呼ばれていたことを表す資料は見つらかず、当時は「栗原新田」と呼ばれていたようである。一ツ家稲荷神社の一七八〇(安永九)年の念仏供養塔には、「栗原新田念仏供養講中」と刻まれ、また、一八八〇(明治一三)年の迅速測図にも「栗原新田」と記されている。もとより、栗原村の人たちが開発したことに由来している。

 江戸時代の地誌『風土記』栗原村の条には、村の小名に、「新田厨子(シンデンズシ)」または「新田(シンデン)」という地名が記されている。これが栗原新田、つまり現在の一ツ家に当たるかは不明である。また、「原嶋(ハラシマ) 小右衛門新田ノ方。綾瀬川ノヘリニアル飛地ヲ云。」という記述は、一ツ家のあたりの原島耕地を指すものである。一ツ家は古くからの地名であると思われるが、耕地名ではなく、むしろ地域の通称に近いものであったようである。


六月村検地帳の「平野耕地」の字(足立区立郷土博物館所蔵)
元禄時代の古文書に「平野」の地名が初めて登場する



明治時代の一ツ家
明治13年では「栗原新田」、明治42年では「一ツ家」と記されている


「平野講中」の文字(平野神社 文化14年庚申塔)


「栗原新田」の文字 石仏の左下に見える
(一ツ家稲荷神社 安永9年念仏供養塔)