昭和三十年代まで、この地域はほとんど田畑だった。当時の航空写真(次頁)を見ても、そのようすがよくわかる。明治以降の文明・産業の発達によって、生活は少しずつ近代化してきたとはいっても、広大な耕地の中に、わずかな家並みが点在した景観は、おおかた江戸時代以来変わらないものであっただろう。
しかし、航空写真などから見てみると、広大な耕地の中にも、現在の、平野一・二・三丁目の町境の四辻あたりに比較的家並みが目立つ。この四辻には、古くから村人に崇敬が厚かった庚申堂があったところであった。庚申堂には、庚申塔や成田山の道標などの石造物がまつられ、地域の信仰・交通の中心だったことがうかがえる(二五〇頁参照)。もともと「耕地」から始まった土地とは言っても、このように人びとの「集落」もあったことがわかる。
この地域を開発した近隣の村人たちは、最初は、田畑を耕しに来ていただけかもしれないが、彼らのうちの何人かは、やがて開発地に屋敷を設け、そこに住むようになったのであろう。農作業や日常生活などで共同作業・相互扶助を行う必要がしぜんと生じ、次第に生活上の習慣・行事・信仰などをともにする生活単位が形成されるようになった。庚申塔などの石造物によって、集住したようすを今日知ることができる。元来、複数の村々の出身者で構成され、それぞれ出身の村とのつきあいはあったであろう。しかし一方で、人びとは自分たちの開発地で、新たな生活上の結び付きを作ったのである。「一ツ家村」「平野村」とは呼ばれなかったが、そこには村と同様な共同のくらしがあったものと考えられる。