一九四三(昭和一八)年、一ツ家で献穀斎田(けんこくさいでん)の奉耕が行われた。献穀斎田とは、皇室行事の新嘗祭(にいなめさい)に献上する稲を栽培する田である。毎年各府県で数か所が選ばれ、たいへん名誉なことであった。この年東京府では、四か所の田が選ばれ、谷古宇新次郎さん(故人、東栗原町二〇八七番地)の田が、その一つに選ばれたのである。
五月三日午前一〇時から行われた儀式のようすは、翌日の『朝日新聞』に報道された(二三四頁)。
場所は一ツ家二丁目二-五(当時の六町一六七五番地)付近の八畝ほどの水田であった。ここには現在はマンションが建っている。
当日は、谷古宇新次郎さん宅から、宮内庁関係者・東京市長・足立区長・早乙女たちが行列して斎田まで向かい、地鎮式および忌鍬忌鋤の儀(鍬入れ式)を行った。早乙女には近隣の子女一三名が選ばれた。新聞に掲載された写真は、二名の早乙女が鍬入れ式を行っている時のものである。鍬入れ式を行った一ツ家一丁目の谷古宇美代子さん(上の写真左側)は、献穀斎田に関係する一連の写真を大切に保管している一人である。
谷古宇新次郎さんの子孫の正彦さんや、谷古宇美代子さんの話では、前日から五反野の髪結いに行き、白衣と朱袴で盛装して式に臨んだという。奉耕者・谷古宇新次郎さんの新聞コメントからも、「献穀斎田に選ばれることが、奉耕者にとっても地域にとっても、いかに名誉なことだと考えられていた時代」であったことがうかがわれるが、衣装は全て自前での調達であった。美代子さんたち早乙女は、言われるままに参加して、たいへん緊張していたという。
鍬入れ式の後、谷古宇新次郎さんは白張に烏帽子(えぼし)を冠した盛装で苗代に種をまいた(播種の儀)。一連の儀式のようすは、沿道から町の人や関係者や早乙女の家族・親戚がかたずを飲んで見守っていた。
それから一か月余り経った六月中旬に、田植えの儀が行われた。この時も儀式用の白装束の前掛袴に手甲・脚絆・すげ笠などを身に付けた。その後、夏に行われた草取り、秋の刈り入れ(収穫祭)の時には平常の野良着であった。
献穀斎田は外部侵入者を許さず、たいへん神聖な浄められた田であると考えられ、犬やニワトリの侵入さえも許されなかった。写真には、竹矢来(たけやらい)で厳重に田を囲っているようすが写っている。儀式中に農耕馬が排便でもしたら、たいへんなそそうなので、馬におしめ代わりのふんどしを着けて耕させたという(このあたりでは農耕牛の方が多かったが儀式用には馬を使った)。宮内庁に納められた献上米は一升であったが、ピンセットを使って不良米を取り除いたり、大きさ、形のいい米を一粒ずつ選び出したというから、たいへんな苦労だったらしい。また稲穂を摘んだ藁(わら)も、畳にする御用藁として献上された。
谷古宇さんが大切な思い出として保管してきたこれらの写真は、一ツ家・平野の昔の農村風景を撮した数少ない貴重な写真である。