一九一七(大正六)年測図の地図を見ると、府県道二〇二号(大正九年に府県道の告示を受ける)沿いに家屋が集まり、南の方は田が多く占め、その中に一部畑もあり、広葉樹が植えてあるという景観に大きな変化はない。
ただ、大正期になると高圧電線が通り、次第に近代化のようすを見せ始めている。通っている場所は、人家から離れた田畑の中である。この線は現在も使われていて、町内には東京電力の送電施設と鉄塔が四本建ち、西加平の花畑変電所までつながっている姿が今でも見られる。
大正時代の放水路開削事業は、足立区にとっても大きな転機をもたらすものだった。千住とは切り離され、下妻道も分断され、この地域の人たちにとっては、交通の便は一時期不便だった。
しかし、二四(大正一三)年には、東武鉄道の軌道変更で、北千住-西新井間に、小菅・五反野・梅島の三駅が新設され、この地域の人たちにとって、新しい交通の便が誕生した。これは二〇(大正九)年に、放水路工事に関連して東武鉄道の軌道が変更となり、現在の位置になったためであった(ただし現在は高架線)。この軌道が中央本町の南の町境となっている。